2013年1月17日木曜日

風景/身体/視線 「季刊タカシvol.17 初春」崟利子映像作品を観てきた

 東京に雪が降った翌日の夜、隅田川は永代橋の袂(右岸)にあるギャラリーマキで、映像作家・崟利子の新作と過去の代表作の2作品を観てきた。
最新作は、黒沢美香&ダンサーズが去年11月に行った青森県八戸ツアーに同行した5日間をもとにした作品。ツアー詳細 http://nangoartproject.jp/dance-jazz.html
私にとって八戸は、親元を離れ下宿暮らしをしながら高校に通った土地、色々な思い出のある第二の故郷の様な場所。そこで我が敬愛するダンサー黒沢美香が踊ったと聞けば観にい行かないはずがない。そして、もしかすると、あの時見上げたキーンと澄み切った晩秋の秋の空が、漆黒の闇の中から次々に地上にふりしきる雪の景色が見られるかもと、淡いノスタルジアのような気持ちを、心のどこかにいだいて上映会に臨んだ。
ギャラリーHP http://www.gallery-maki.com/
 しかしそんな中年男の小っちゃな郷愁などあっけなく吹き飛ばす、冷静で深みのある作品に出会えた。未見の作家の作品に出会っていつも思うのだが、なんでいままでこの作家の活動を知らなかったのかと悔やむ、と同時に、世界にはまだまだ自分の知らない興味深い面白いコトはある、素晴らしい活動をしている人はいるということにワクワクする。
 上演は崟利子の代表作「伊丹シリーズ」から始まった。何の変哲もない住宅街の十字路を中心に固定されたビスタの映像。細い通りを、人が、自転車が向こうからやってきて、画面の外に消えていく。固定されたフレームの中で、歩く人は出現と消滅を繰り返していく。当たり前と言えば当たり前の光景の中、一人の作業員が中央の電信柱をよじ登っていく。自動車がその電柱の脇を右折して画面の中央に出現する。そして自動車は画面の外へ消えていく。作業員は電柱に登ったまま。夏の昼下がり。
 映像はフェードアウト・インを繰り返しながら固定されたフレームで様々な街の風景を、異なった時間帯で映し出していく。映像の中に、人々は出現し、そして消えていく。
夕方の空であろうか、あかね色の空の遠くに飛行機が飛んでいた。やがてテキストを朗読する声が映像に被さってくる。その声を聴くことは私には初めは苦痛に感じられた。スタティックだが、十分に豊かな映像を観るという行為と、散文詩のような詩的言語を聴いて理解する行為がうまく調整できなかった。声は、やがて視界から消え去っていく者達との交感不可能性について言及して終わる。なんだか、喪の体験が基底にあるようだと感じられた。映像は夏の盛り、寺社での主教儀礼の様子を映し出す。今度はカメラはゆっくりと旋回しながら周囲を映し出す。寺の敷地では、夏祭り。
 視線の変化はなんなのか。街角の風景のスケッチから、そこに現れた人々に少しばかり意識が接近したように感じた。朗読されたテキストが、テロップで画面に現れる。消え去った人にどのようにして、呼びかけをすればよいのかわからない。そんな内容だった。テキストの言葉が心にしみこむ。盆踊りの光景。夜の小川。
 映像は、やがて秋になった街の通りの様子を固定したフレームで淡々と映し出して終わっていく。映像を観ていて、これは一体誰の視線なのか考えた。街を俯瞰する上方からの視線ではない。そこに出現と消滅を繰り返す人々と同じ位相にある視線。位相は等しいが歩く人たちに、圧倒的に距離感を感じる。夏祭り会場で旋回した視線も、周囲を映し出してはいるが視線の主体性は希薄だ。ひょっとすると画面=世界から消え去った死者達から眺めなのかもしれないとも感じた。
 つぎに八戸ツアーの作品。黒沢美香&ダンサーズの作品は、JAZZという音楽の方法論をもとにした「jazzzzzzzzz-dance」。JAZZの様に、一見自由度が高そうに見えるダンスだか、ミニマルな振付がされており、ベーシックになる振付にダンサーが内在しないと成立しない作品。ダンスでjazzを泳ぐと、黒沢が書いているように空間のあちらこちらでダンスが生まれ、デュオになり、トリオに成り、ユニゾンに成り、そして散開し、また集合を繰り返す。いままでにも何回も上演され、上演の度に、Zの文字が追加されていく。(私は初回と、その7個目のZを観ているのかな。)勿論、とってもグルーブ感のある作品。
 さてそんな沸き立つ感じのある作品に、崟利子は自らの方法論を崩さずアプローチしていく。稽古の様子、本番の上演、移動風景、休息時間などを、伊丹の街の風景を撮ったように固定した視線で淡々と映し出していくのだ。単なるダンス作品のドキュメントではない。画面の右から左に、二人一組になったダンサーが同一のモチーフを繰り返しながら現れては、消えていく。それに被さる黒沢が振付をする声。ダンス作品の全貌を伝えるのではなく、ダンスを成立させる個々のダンサーの身体の、その運動する四肢の、一瞬一瞬の表情を冷静につかみ取っていくのだ。まるで橋の上から川面の様子を凝視するかのような態度。風景としての身体をそこに見いだす。
 わたしはかねがねダンスというものは、それを意図した瞬間に生まれ成立する、もしくはそうありたいと願うものだという思いがある。同じステージワークである演劇は、その開始にあたってある種の欠如を前提とし、観客と共にその欠如を補完していく。ダンスは補完すべき欠如を持ち合わせていない。ダンスは存在の現前性をもって開始する。あたかも、山や海や川のように。風景には変化はあるが開始と終了はない。ダンスという風景の中を人が通過していくのだ。(しかしこの考え方は私の悪い習性なのだ。ダンスを、ダンサーや振付家や観客の外部に追いやって、思考不能にしてしまう。密教?)
 映像の中で、出現しては消えていくダンス。それはまるで伊丹の街の往来を通過して消えていく人々のイメージに連結する。途中、劇場ではなく住宅街の風景の中で、一服をしながら沈思黙考しているひとりのダンサーの姿が映し出される。その路傍にしゃがみ込む姿勢や立ち上がって伸びをする行為がまるでダンスをしているように感じられたのが不思議だった。そして繰り返すまた同じ疑問。果たしてこれは誰の視線なのか。
そして終演後であろうホールの外に降りしきる雪の情景が、前日の東京の雪とシンクロし、八戸の冷く凍てつく冬の空気を思い出して身も心もキュッとなった。















2012年10月13日土曜日

雑記 廃墟についてあれこれ

10月4日上野桜木K's Green GalleryでおこなったPaul Weihs氏の映像作品上演会には、多くの方々に足を運んで頂き誠にありがとうございました。そして私どもの急な申し入れを快諾し会場を貸してくださった熊井千代子様、改めて感謝申し上げます。上映会後は質疑応答の時間を経て谷中の五重塔跡公園にて集団即興セッション「谷中会議」を一晩だけ復活させる予定でしたが、「Letter to Tokyo─東京への手紙」を上映している最中に、作品中の降雨に呼応するかのごとく突然の大雨が振り出し、上野桜木の通りはまるで川の流れのようになりました。野外イベントは中止。そして雨宿りをかねたディスカッションタイムは、多くの意見が交わされ、大変有意義な時間となりました。
撮影 上山誉晃

あの夜から一週間以上日にちは過ぎたが、未だに色々考えている。谷中会議のこと。コミュニティのこと。そして何より廃墟のこと。Paulさんの最新作「Estadio Insular ─様々な痕跡を求めて」は、スペイン、カナリア諸島のとある島の市街地の中心部にある、閉鎖され廃墟と化したサッカースタジアムの内部を撮影したドキュメント。かつてそこに試合観戦の為に集まったであろう2万人余りの人々の替わりに、多くの植物が繁茂している。その昔スタジアムを取り囲む丘はそこに入りきれなかった人達が陣取って見物していたのだが、すでに丘は切り崩され廃墟を見下ろすように高層住宅が建っている。登場人物は存在しない。淡々としたナレーションが流れる中、様々な過去の痕跡を辿るように色々なアングルで撮影されたスタジアム内の映像が映し出される。無人の廃墟を徹底的に映し出すことで外部の都市の喧噪、人々の日々の生活の気配を逆説的に描き出そうとしているのか。耽美な美しい映像の数々。それにしても病的とすら感じられるほどのスタジアムに対する執拗な歩み寄り方に驚く。彼は不景気の中で未だに跡地利用が定まらず、廃墟として放置されているスタジアムを「社会的彫刻」と呼んでいる。もしかするとサッカースタジアムは、彼にとってギリシャ・ローマから続く歴史の中のコロシアムとしての文化・コミュニティの寓意かもしれない。http://vimeo.com/32509651 左記作品の予告編。


飯島洋一著「現代建築・アウシュビッツ以降」青土社刊2002年の中に「ナチスの廃墟 ウィーンの要塞建築」という短いが大変興味深い文章を見つけた。飯島氏はウィーン滞在中(1980年代)に第二次世界大戦中に、連合国側からの空爆から首都を防衛するために建造された巨大な砲撃塔とレーダー塔を訪れた。飯島氏は疑問を抱く。戦後多くの年月を経た現在、なぜナチス時代を想起させるような建造物をウィーンの人々は残しているのだろうか。氏はその理由を、例え忌まわしき過去を背負った建築であったとしても歴史として記憶にとどめようとする精神的態度の表れだと。そしてそのような考えに向かうのを氏は、自身が日本人であるからではないかと自問する。広島の原爆ドームを除いて廃墟が都市に残されておらず、阪神淡路大震災の記憶すら残っていない。(この点の記述に関しては私には異議があるので後述する)それに対して西欧ではローマのように廃墟が都市の日常の中にある。その違いではないかと。
しかしその要塞は別の理由で残されていたことが判明する。要塞は戦後幾度と無く解体が計画されていたが、壁厚が数フィートにもおよぶ堅牢さゆえに破壊不可能という結論に落ち着いたのだった。「壊さない」のではなく、「壊せない」。「破壊不可能性」ゆえに廃墟と化す要塞。それは本来的な廃墟の概念からすれば矛盾しているが、飯島氏はそこに西欧的な「重さ」「永遠性」を見いだす。建設時に「破壊不可能」なくらいに堅牢に作られたと言う点に「重さ」の歴史を。
一方日本の建築に対しては、逆に「壊せないこと」ではなく「壊れること」、いつでも「壊せること」という非永続性や反構築性が建築概念にあるのではないかと示唆する。スクラップ・アンド・ビルドを繰り返す都市。飯島氏の建築評論のスタイルは症候的なものの、読み取りを通じて建築の文化的・歴史的文脈に辿り着こうとする試みと思われる。その点においては大変興味深い。矛盾する廃墟概念も大いに思考を刺激してやまない。
この飯島氏の著作は9/11アメリカ同時多発テロ事件の影響下でまとめられた論考である。二度の世界大戦。アウシュビッツ。ホロコースト。人間の思考の歪さ。イスラエル。パレスチナ。近代化の中で得た物、失ったもの。様々な歴史的因子が、ハイジャックされたジェット旅客機に結実し、9/11に世界貿易センタービルに激突し多くの尊い人命と共に巨大な建築を崩壊させた。http://allxa.web.fc2.com/a-map/austria/augarten/augarten01.html左記ウィーンの要塞の紹介サイト。飯島洋一氏のサイトではありません。参考までに。

しかし、しかしである。この本の出版された9年後に私達は東日本大震災を経験した。復興にはほど遠い東北の現状。依然として処理が進まないガレキの山。そして福島第一原子力発電所については何も言葉が出ない。現在の日本の状況の中で、津波で流され破壊される街を目撃し、壊そうにも簡単には壊せない福島第一原子力発電所の存在を前にしてもなお日本における建築の非永続性、反構築性の概念を語るのは難しい。それは建築に内包されている問題を超えて倫理の問題と繋がっていく。

歴史の中にあることと、だだ今、現在で向かい合うことの違い。この違いは単なる線的な時間軸上の位置の差異ではない。

ある時期、廃墟ブームがあった

90年代初頭、当時千葉大助手の藤原惠洋氏(現九大大学院教授・建築史家・建築学者)が主催する勉強会、風水研究会で若手研究家が日本の廃墟を撮影した写真のスライドを上映した。その時スライドを見ていて妙な違和感を感じたのを覚えている。映し出される廃墟の映像の数々を美的対象として鑑賞すればよいのか、それとも社会的文脈で思考すればよいのか分からなかった。藤原氏が赤瀬川源平氏の言葉を引用してコメントしていたのを思い出す。(氏は路上観察学会員でもある)トマソン物件が美しすぎる、もう美しさはいい。(記憶違いでしたらすみません)そのコメントは若い世代が廃墟を徒に美的に鑑賞する事に対しての批判だったのかもしれない。
私と言えば廃墟にたいするそのようなロマン主義的な視座を持っていなかったので、空襲の焼け野原の東京は廃墟なのか?原爆ドームは廃墟なのか?と半分興奮して発表者にくってかかった。それに対して藤原氏が平然ともちろん廃墟だと返答してのを覚えている。

変な義憤に取り憑かれていたのだと思う。


そんな私であるがこの5、6年くらいだろうか。関東近辺の近代産業遺跡をフィールドワークしている。特に足尾銅山や日鉱鉱山、常磐炭鉱など。といってもそんなに高尚な事をしているのではない。とにかく現地に行って見てみようという事を繰り返してる。何度も訪れるたびに、段々土地に体がなじむ感じがしてくる。そしてただ目に見えて残っている建築・遺跡・廃墟だけではなくそこで労働に従事していた人々の生活の有様に興味が移ってい行った。とくに「友子制度」には大きな関心を持っている。「友子制度」とは江戸時代から昭和50年くらいまで存続していた鉱山・炭鉱労働者の結社のことである。近代的な労働組合と似ている点もあるがより密接な人間関係、親分子分のちぎりなど危険で劣悪な労働環境で仕事をしていた男達の心身ともに、大きなよりどころとなった組織である。友子の免状を得た職人は全国の鉱山・炭鉱で働くことが出来た。病気をした場合の支援、死んだ場合の遺族の面倒などもした。もちろんストライキも。面白いことに友子の起源は、関ヶ原の戦いで形勢不利であった徳川家康を鉱山で働く者たちが助けたことに由来すると友子の巻物には書いてある。話が廃墟からずれてきた。友子についてはさらに勉強してから改めて書いてみるつもりだ。

足尾銅山 渡抗夫・友子の墓

足尾銅山 小滝地区 共同浴場の跡

ウィーンの要塞に話をもどす。Facebookで要塞について記述してところ帰国したPaulさんからコメントがあった。彼は1985年くらいに建築設計事務所で働いていた。そのとき事務所の建築家が要塞のリノベーションを試みていたそうだ。要塞が直接的に過去の歴史と繋がっている状態を変えるために。しかし要塞の堅牢なつくりに計画は断念された。厚さがなんと7メートルもあるコンクリート製の壁を開口し窓をもうけたり、構造を改造することは技術的にも予算的にも困難であることが判明したのだそうだ。塔のうち一つは(全部で6カ所建造された。)戦後、鉄道の貨車にダイナマイトを充填し内部からの爆発を試みたが、屋根は吹き飛んだが、要塞の壁はしっかりと残ったらしい。
私も仕事柄コンクリートの壁にダイヤモンドコアドリルで開口部を作る事があるが、直径30cmの穴を1メートルの厚さを開けるのに半日以上、下手をすると一日かかる仕事量だというのを知っている。しかも7mの壁厚を切り取ることが可能なダイヤモンドカッターの機械を私は知らない。「破壊不可能性」、たしかに納得せざるをえない。Paulさんは要塞を公園の中の忘れられた戦士と例えている。

2012年9月27日木曜日

谷中会議


東京への手紙 | Letter to Tokyo from Paul Weihs on Vimeo.

今年の春、私は黒沢美香さんから一通のメールを受け取った。。そこには上記の動画へのリンクが張られていた。動画を観て驚く。なんと自分が仲間達と踊っているではないか。しかも若い頃の私。美香さんはニューヨークはザ・キッチンで踊るアメリカ・コンテンポラリーダンス界のゴット姉さんこと、サラ・ミチェルソンさんからこのメールを受け取った。サラさんもこの映像に映っている私達を探している人物からメールを受け取った。私と仲間達であることが分かったので、私に辿り着いた次第。発信元はオーストリアはウィーンにすむPaul Weihsさんが、2000年に日暮里谷中霊園内の五重塔跡公園での集団即興パフォーマンスの様子を撮影したもの。私達は1989年から2009年まで前述の公園内で毎週火曜日と金曜日に集団で即興パフォーマンスを実践していた。そしてそれを谷中会議と名付けていた。谷中会議にはダンサーのみならず、音楽家、美術家、写真家、詩人、建築家などなど様々なジャンルの表現者が集まり、即興を手段とし新しい表現の可能性を模索していた。延べにすると相当な人数になるのではないだろうか。先輩ダンサーの黒沢美香さんも然り、サラさんも来日したときは谷中に通ってくれた。しかもサラさんからは谷中会議は、日本のジャドソン・チャーチだなんて嬉しいコメントをもらったことも。そして12年前にサラさんと同じ千駄木のゲストハウスに宿泊していたPaulさんが、彼女から私達の活動を聞いて飛び込みで撮影したのがletter to tokyo/東京への手紙ということだ。私は撮影されたことなど、とっくに忘れてしまっていた。しかし事の次第の整理がつくと、私達は早速Paulさんと連絡を取り合いこの9月に再会することとなる。そして映像に映っている4人のメンバーの12年後の表現活動や実生活、仕事の様子などのドキュメントを撮影した。このプロジェクトの話を上野桜木で代々上野寛永寺の畳を請け負ってきた老舗畳屋さん、そして現在は内装工事、一般建築もてがけるクマイ商店(株)を経営されている熊井千代子さんに話したところ急遽、熊井さんが運営するK's Green GalleryでPaulさんの映像作品の上映会が実現することになった。上野桜木近辺は美術館やコンテンポラリーのギャラリーなどが点在すると東京を代表するアートスッポットの一つ。千代子さんも1997年から続く地域のアートイベント、Art-linkの実行委員会の重鎮。K's Green Galleryもイベントの情報センターとして賑わいます。そして今晩と土曜日には福島は檜枝岐村の農民歌舞伎をドキュメントした映画も上映されます。http://artlink.jp.org/2012/artist/09/03.html
 
さて私達の上映会ですが明日の4日、午後7時より開始します。
作品はletter to tokyo 東京への手紙と新作 Estadio Insular 様々な痕跡を求めて
の二作となります。新作はスペイン、カナリア諸島のとある島の閉鎖されたスタジアムが
荒廃していく様を中心に、コミュニティの過去を遡る作品です。
上映会の後質疑応答の時間を設けています。
その後会場を撤収し、谷中霊園内の五重塔跡公園に移動。何年かぶりに谷中会議を再開したいと思います。参加自由です。ルール等は現地で協議いたしましょう。よろしくお願いします。




http://vimeo.com/32509651
Estadio Insular のトレーラーです。雰囲気がいいです。


K's Green Galleryの所在地


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2012年9月25日火曜日

萩原富士夫ソロダンス2012 「せぬひま──脚注、引用、余白」

今週末の土曜日曜に6年ぶりにソロダンスを上演いたします。

萩原富士夫 ソロダンス☆2012
せぬひま───脚注、引用、余白
9月29日 土曜日 19時スタート
9月30日 日曜日 17時スタート
両日とも開場は30分前
チケット代1,000円
場所・Studio GOO
世田谷区粕谷4−17−19
TEL03-3326-4945

今回は幾つかのモノたちとダンスします。








尾久の原公園にて稽古中 写真矢尾伸哉氏
同じく尾久の原公園にて


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2012年8月15日水曜日

「クラウド・シティ」トマス・サラセーノ展を見て

銀座のメゾンエルメス8階フォーラムで、「クラウド・シティ」トマス・サラセーノ展を見てきた。http://www.art-it.asia/u/maisonhermes/FOYzTJadHwNI2LZMuWrb
トマス・サラセーノはアルゼンチン生まれで現在ドイツ在住のアーティスト・アーキテクト?私には初見の作家。空中浮遊都市の展示と知り、これはトンデモ建築に出会えるかと思い行ってきた。会場には大小様々な大きさの木製多面体が、単体もしくは複数連結したものがワイヤーで空中に固定されてた。どうやらそれら多面体の連なりが空中浮遊都市のイメージのようだ。では一体それらの物体はどのような機構で浮くのかと考えてしまう。多面体の内部は泡のように空洞で外観のイメージしか伝わらない。アート作品だからそれでいいのか。ちょっと不満。いやちょっとどころじゃない。大いに不満を感じた。機能と構造とデザインが一致しないじゃないか。いや、空中浮遊は技術的には不可能に近いんだからアート寄りのアンビルトの展示と思えば納得できるかなと消化不良の感覚を覚えながら会場をうろうろしたらまだ他にも展示物があった。巨大な黒いビニールの気球のようなもの(むかしゴミ袋に使っていた黒いビニール袋の巨大なやつ)が、床から天井まで膨らんでプルプルと震えて横たわっている。600φの鋼製リングの開口部一カ所有り、その脇には扇風機が一台内部に空気を送っていた。せこい空調だなと思いながらもバルーンの中に靴を脱いで入る。内部は広く、モニターが設置してありサラセーノの作品を紹介する映像が映し出されていた。扇風機一台で空調している割には暑くないなと思いながら映像をみていると、一体このバルーンはなぜ膨らんでいるのかという疑問が生まれた。あわてて外に出てバルーンを支持している構造物や引っ張っているワイヤーなどが無いのを確認してから、そばに立っていた案内の女性の方にバルーンの機構を質問した。なんと答えは扇風機一つで膨らませているとのこと。これは面白い。これは確認していないが黒色ビニールシートを使用しているのは太陽光によって空気を暖めるためだろう。レンゾ・ピアノ設計のメゾンエルメスの建物、全体がガラスブロックで覆われているから太陽エネルギーは使い放題。木製多面体作品はイメージ先行の夢想的な展示に思えたが、黒色バルーンは機能と構造が一致している。デザインに関しては墜落した気球のようで、無様な印象を受けなくもないが手仕事感が溢れていて個人的には好感が持てる。そして作品の脇のベンチに置かれていた空中浮遊のための指南書を読むと、黒色バルーンを使い太陽熱だけで浮く実験を成功させているではないか。ビニールシートのカッティングから貼り合わせの手順まで詳しく説明しているその資料にエンジニアリング魂を大いに刺激された。

空中浮遊による重力の原理にとらわれない自由な空間の創出、そこでの人々の出会いと生活。国家の枠をこえたエコロジカルな発想および技術を利用した新しいパブリック空間の設計。それらのコンセプトをアンビルトなイメージとして展示するのではなく、それを実現するために様々なアイデアのプロジェクトを実践することでユートピアを描き出す。などと書いてはみるものの、私には「クラウド・シティ」は全体的に楽観主義者のユートピアの夢想に感じられた。

技術系アンビルドの系譜はバックミンスター・フラーを思い出してしまう。技術的には可能であるが、現実に技術面の問題が解決した際に、人間が果たしてその空間で新しい生活スタイルを手に入れることが可能なのかが疑わしいのだ。フラードームは富士山の気象測候所などで使われているが、地球全体で見れば軍事施設での利用が一番多いのではないだろうか。FRPのユニットバスもそうだ。仮設の風呂・トイレを安く早く設営するためのプランが日本の住宅市場に取り込まれた瞬間に貧相な住文化になりさがる。生活が向上するためには技術的な問題を解決するだけではなく、社会学、政治学、経済学等の人文科学系の知見を取り入れることが必要に思われるのだ。
技術系アンビルドは何も高度なテクノロジーだけが問題ではないのだ。例えば「O円ハウス」で有名な坂口恭平氏のモバイルハウス。完全な0円ではないが少額の金額で雨露をしのぎ生活することのできる快適なスモールハウスを作ることは可能だ。社会保障制度の網からたとえ落下してしまったとしても、人間何とかやっていける。いやより人間らしい生活が可能だというメッセージもすばらしい。でも廉価なモバイルハウスが市場に流通したらどうなるだろうか。BOPビジネスの主力商品になるかもしれない。

空中浮遊都市。国家を超えたパブリック空間。聞こえはよいが、その場所での富の再配分はどのようなシステムを取るのだろうか。空中浮遊都市ならそのインフラ整備には相当な金額が必要になるに違いない。住民は国家に帰属する代わりに、世界的に展開している保険会社に帰属するかもしれない。特定の国の上空には領土問題上浮遊する事はできないであろう。反対に空を解放する代わりに地上に資本を投下することを提案してくる国家も現れるかもしれない。実際にタックスヘブン・情報ヘブンを利用した人工国家の出現は近いかもしれない。私もとりとめのない夢想にはまり始めた。

最後に私にとって一番印象が強いのアンビルトな作品は、アーキグラムのウォーキング・シティでも、黒川紀章のHelixでもない。磯崎新の「エレクトリック・ラビリンス ふたたび廃墟になったヒロシマ」だろうか。実現する以前にすでに廃墟になっているメガストラクチャー。色々な意味で考えさせられる作品だ。








2012年8月3日金曜日

奇っ怪紳士!怪獣博士!大伴昌司の大図解展を見てきた

文京区は本郷にある弥生美術館館に、大伴昌司の大図解展を見てきた。
ウルトラシリーズに登場した懐かしい怪獣達の体内解剖図解の数々が展示したあった。バルタン耳やバルタン胃。エネルギーぶくろや、怪獣の弱点。1万トンやマッハ2や何万馬力などの具体的に記述されているが、凄いんだろうとしか漠然に思うしかない数値の数々。子供の頃に彼の怪獣図鑑を実際に所有して愛読したというハッキリとした記憶はないのだが、大伴の影響を受けたであろうと思われる色々な図解シリーズを小学生低学年の頃夢中になって読んだ記憶はある。特に未来予想が好きだった。立体テレビ。エアカー。未来都市での生活。ロボットが人間の活動をサポートし、テクノロジーの発達により深海や宇宙にまで活動範囲を広げる人類。科学がもたらす明るい未来。自分が大人になる21世紀はどんなによい時代であろうかと夢想する一方で、破滅的なイメージにも魅惑された。宇宙人の襲来。公害。食糧危機。大三次世界大戦。人類滅亡の予想。
大伴昌司の大図解展でも未来の予想についての展示に目が行く。彼の大図解の代表的な例として取り上げられるのが、「情報社会 きみたちのあした」《1969年(昭和44)『少年マガジン』掲載》なのだそうだ。今回私はこの展示で初めて知った。ちなみに掲載時私は4歳だ。
コンピューターによる犯罪分析と犯人逮捕、そしてなんとコンピューターが裁判の判決まで下す。他にも教育システム、自動車の自動走行システムや遺伝子操作による新しい生物の創造などが描かれている。現在インターネットを利用した学習などはもはや珍しくもない。自動走行システムのなどはグーグルが積極的に推し進めている。図解ではネズミ大の大きさの像やキリンが描かれていて気持ち悪い。でもそのうち生まれるかも、情報社会の花形として電話が取り上げられている。さすがだ。でも携帯電話までは予想していない。
面白かったのは「ドライブイン病院」自動車に乗ったまま、ファーストフードのドライブスルーを利用する感じで人体がスキャンされ、異常がなければそのまま走行を続けることが可能なのであるが、入院が必要とされる異常を抱えた人物の自動車は自動的に大型コンテナに誘導されそのまま病院送りとなる。さすがに自動車に乗ったままの診断は難しいだろうが、それこそスマートフォンのアプリのようなもので定期検診することが国民に義務付けされたりするかもしれない。それより飲酒運転撲滅のために自動車に生体検査システムが埋め込まれるのが早いかもしれない。それは同時に交通違反をはじめとし各種犯罪の予防捜査も利用される。なんだか私も三流SF作家の様な妄想に囚われ始めたようだ。
大伴の図解に戻ろう。原子力関係の記述にも注意がいく。ゴジラは言うまでもない。ガラモンはロボット怪獣で体内に原子炉を持ち放射能をまき散らすらしい。ガボラという怪獣は原発を襲ったそうだ。貝獣ゴーガは放射線の影響で巨大化する。ウルトラマンに出てくる科学特捜隊のビーグル号はあんな小さな機体を原子力エンジンで飛行している。冷戦下の核実験の影響と夢の技術としての原子力が共存しているのが感じられる。
展示は他にもホラーやミステリ、SF関連の仕事の資料なども。小松左京やアーサー・Cクラークとともに映っている国際SFシンポジウムのスナップもあり。少年雑誌からSF、テレビ脚本、映画評論まで多彩なジャンルで活動したプランナー、ジャーナリスト大伴昌司の様々な仕事が取り上げられている展示。見るというよりは、雑誌を読むそんな感じの体験をした。
弥生美術館に連結している竹久夢二美術館では、関東大震災を経験した夢二が被災した東京を歩き回り描いたスケッチと残した文章が展示されている。画家として、目の前に起こったことをしっかりと目でとらえ、残そうとする鋭く強い意志を感じた。

 


2012年7月20日金曜日

人生の奇跡 J・G・バラード自伝を読む。

J・G・バラード著 人生の奇跡 J・G・バラード自伝 東京創元社刊 柳下毅一郎訳 を読了。生まれ育った上海国際共同租界の風景、戦時中の収容所生活。このあたりの記述では小説「太陽の帝国」、そしてそれ以上にスピルバーグによる同作の映画の印象が強いので、バラードの自伝を読みながら私自身の過去の読書・映画体験を回想するという奇妙な体験する。30年前に「時の声」、「結晶世界」を読んで以来、すべての作品ではないが継続的に読んできた作家なので、作品体験が私の実人生のマイルストーンの様なものになっている事に気づく。文学体験とは己の人生を生きながら、他者の人生を部分的ににではあるが共有することだなと感じた。この様な感覚が生まれるくらい、バラードの上海は強烈で有り、そして懐かしかった。

バラード自身こう記述している。
いくらか好意的な読者は初期長編や短編から、すぐに「太陽の帝国」のこだまを読み取った。過去三十年間にわたしがばらまいてきたトレードマーク的イメージ───水のないプール、遺棄されたホテルやナイトクラブ、放棄された滑走路と洪水になる川───
はすべて戦時の上海にルーツを持っていた。長いあいだわたしはそのことに抵抗していたが、今ではまちがいなく真実だと認めている。わたしが抑圧しようとしてきた上海の記憶は床板を突き破って足元から飛びだし、我が小説の中に音もなくすべりこんだ。216頁より引用

このフレーズも心に響く。
上海を忘れるのに二十年かかり、思いだすのにまた二十年必要だったのだろう。英国に戻ってきた戦後すぐのころ、上海はけしてたどりつけぬ都市、二度と戻れぬ過去にうもれた黄金郷だった。213頁より引用

戦後、イギリスに帰国。初めて接する故国イギリスの文化・社会(黄昏れていく大英帝国)に困惑しつつも医学を学び(人体解剖のエピソードが印象的。少年期に数多くの死体に接したことのトラウマの超克か?)シュールリアリズムの芸術に心を魅了され、やがて小説家として生きることを志すバラード。空軍パイロットのための訓練で赴任したカナダの空軍基地の売店でSF小説と決定的な出会いをする。

わたしはSFに惹きつけられ、のめりこんだ。ここにあるのは、実際に現実を扱い、ときにはほとんどカフカのように簡潔で両義的な小説だった。SFは消費広告に支配された世界、広報活動に変容をとげた民主政府の存在を認識していた。それは我々が実際に生きている自動車、オフィス、ハイウェイ、飛行機、スーパーマーケットの世界だが、純文学からはきれいさっぱり抜け落ちているものでもあった。ヴァージニア・ウルフの小説の登場人物は一度たりと自動車にガソリンを入れたことはない。サルトルやトーマス・マンのキャラクターは一度も散髪代金を払ってはいない。ヘミングウェイの戦後小説は核戦争の脅威に長くさらされる影響をとらえていない。今見てそう思うのと同様、当時でもそれは馬鹿馬鹿しく、不条理なことだった。いわゆる純文学作家たちにはひとつの支配的特徴があった────その小説はまず第一に自分自身についてのものだったのだ。モダニズムの中心には「自己」が横たわっていたが、今そこには強力なライバル、日常世界があった。それは「自己」と同じように心理的構築物で、同じように謎に満ち、ときに精神病質の衝動をしめす。この禍々しき領域、気が向けば次のアウシュビッツ、次のヒロシマへと日帰り旅行に出かけるやもしれぬ消費社会こそ、サイエンス・フィクションが探求しているものだった。──以下中略── 国境までの日帰り旅行でわたしが見たものはカナダとアメリカに急速に訪れつつある変化だったが、その変化はいずれ英国にも到着するだろう。わたしはSFを内面化し、消費社会とTVランドスケープと核軍拡競争、フィクション的可能性の未踏大陸に潜む病理を見いだすだろう。わたしはそう信じた。  143から144頁より引用


この記述にはSF作家になろうとするバラードの決意表明以上のものが書かれている。1953年にSFに出会ったバラードが、果たしてその時、その後の20世紀後半にアメリカを中心として興る消費社会、マスメディアの日常生活への浸透そしてその影響力、テクノロジーの発展と同時に起こる軍拡競争などをどの程度予想していたか知るよしもないが、その後に書かれた数多くの作品が預言的であったことは言うまでもない。ショッピングモール、空港、高速道路、モータリゼーション、郊外、等々。90年代中庸以降日本の私達の思考の場所でもたびたび取り上げられるタームはすべてバラードの作品群から抽出されたのではないかと思うくらいに、バラード的世界を生きている。かつて私が東北の田舎町でバラードの作品を読みながら夢想した殺伐とした人類滅亡後の風景は、東京郊外を自動車で走れば、いくらでも車窓から否が応でも目に飛び込んでくる。とくに震災以降は現実がバラードを追い越してしまったと言っても過言でないだろう。

アポカリプス的な文脈で語られる事が多いであろうバラードであるが、それこそ彼の日常生活について知った事は救いであった。3人の子供を残し病死した若い妻亡き後のバラードは、シングルファーザーとして、育児に専念し、料理を作り、学校に子供達を送ってやり、迎えに行くまでの時間を執筆にあてていたのだ。子供達の成長の様。再婚相手との出会い。作品の中で幾度となく人類を滅亡させた男の実生活。

妻や子供達へのの愛情。父親であることの誇りと喜び。本書のタイトルも彼の子供達に由来するものであり、自伝は彼らに捧げられている。

自伝の最後は死因となった前立腺癌とその治療、そして死を覚悟し自伝を書こうという意志が生まれたことをさりげなく書き表し結ばれている。

ジェイムズ・グラハム・バラード 1930・11・15生〜2009・4・19没