2014年2月23日日曜日

プルースト現象/チーコと馬

 しかし、古い過去から、人々が死に、さまざまな物が崩壊したあとに、存続するものが何もなくても、ただ匂と味だけは、かよわくはあるが、もっと根強く、もっと形なく、もっと消えずに、もっと忠実に、魂のように、ずっと長いあいだ残っていて、他のすべてのものの廃墟の上に、思いうかべ、待ちうけ、希望し、匂と味のほとんど感知されないほどのわずかなしずくの上に、たわむことなくささえるのだ、回想の巨大な建築を。

「失われた時を求めて」マルセル・プルースト 井上究一郎訳 ちくま文庫 78pより引用

 そしてあたかも、水を満たした陶器の鉢に小さな紙きれをひたして日本人がたのしむあそびで、それまで何かはっきりわからなかったその紙切れが、水につけられたとたんに、のび、まるくなり、色づき、わかれ、しっかりした、まぎれもない、花となり、家となり、人となるように、おなじくいま、私たちの庭のすべての花、そしてスワン氏の庭園のすべての花、そしてヴィヴォーヌ川の睡蓮、そして村の善良な人たちと彼らのささやかな住まい、そして教会、そして全コンブレーとその近郷、形態をそなえ堅牢性をもつそうしたすべてが、町も庭もともに、私の一杯の紅茶から出てきたのである。

同書79pより引用

 私の書棚のかなりの割合を占める積読本の地層の中から、横綱クラスの大作のひとつプルーストの「失われた時をもとめて」が正月休みに棚から崩れ落ちて来たので、これは何かの啓示かとおもい10年ぶりに再チャレンジしている。とはいえ今回は最初から読了する気など到底なく、飽きたらすぐ棚に戻すつもりなのだが、ところがどっこい、これがなかなかおもしろい。プルーストやるじゃないか!(本当は私の読み方の問題なんですが。)
 これといった読み手の興味を引くような事件など起こる事なく、どうもいいことをもったいぶって書いているだけじゃないか、これを読むなんて拷問だな、と感じた10年前と異なり、冒頭の眠りに関する記述から今回はノックアウトされた。きめが細かく、多様な色使いで、様々なイメージが織り込まれた布地のような文字の連なり。その布地の肌触り=テクスチャーを視覚で撫ぜて官能する感覚がおきる。そしてテキストを目で見る事だけでは飽き足らず、ゆっくりと声に出してみる。すると言葉の一つ一つが濃厚な香りを発しながら、ある湿度と熱を保った空気となり、私の口腔や鼻腔、咽喉や肺の中までを満たすのだった。そしてその充溢感に意識が酩酊し、言葉の行く先を辿る事なく、過ぎ去った余韻を楽しんでいる。こんな調子だと文庫の第一巻を読むのに1年以上かかりそうだ。はてさて興味はいつまで続くであろうか。とりあえずかの有名な紅茶とマドレーヌの箇所までは辿り着いた。紅茶に浸したマドレーヌを食べた時、幼い頃の記憶が鮮明に蘇るというエピソード。上記の引用はその部分から。
 読んでわかったのだけれども、主人公は、一さじの紅茶を、マドレーヌの一きれをやわらかく溶かしておいた紅茶を、一口飲んだ瞬間に、過去を、ハッと思い出すのではないのです。その行為は、はじめは原因のわからない快感として体験される。紅茶とお菓子の味によって引き起こされた快感を主人公はじっくり考察します。そこに重要な真実が隠されているとして探求します。匂や味といった、そこはかとなく形容しがたいものに主人公は真摯に向かい合います。それはどうやら回想に関係していると考えます。しかし何の回想かわからないで、悶々とします。そして最後には、そのような探求は放棄しいつもの様に紅茶をただ飲みさえすれば良いと思った突如、回想が現れる。主人公が幼い頃すごしたコンブレーという土地の記憶が呼び起こされる。引用はコンブレーを思い出してからの記述だ。そこににいたるまでの精神の活動の軌跡はドラマチックとでも呼びたくなる。
 
身の回りに起こるささいであるが、何故か気になる事。気になるにもかかわらず一体何が原因であり、何を意味しているのかわからない事。事が生起したその瞬間に、アレ、アレ、アレ、コレ何だっけ?って思い出そうとするのだが、立ち止まっていた交差点の信号が赤から青に変わったり、自動販売機のボタンを押したので、缶コーヒーがごっとと、音をたてて取り出し口に落ちて来たり、急行列車の通過待ちをしていた各駅停車の列車のドアがしまったりと、次の事態がおこっていくので、コレが一体なんなのか結局わからず仕舞いな事。コンブレーのようにはっきりと回想が立ち現れることもなく、何かを思い出しかけたことすらも忘れてしまうような事が多々あるなと。私の場合は、冬の季節に多い気がする。自分が北海道生まれで、高校は青森で生活していたせいもあるのだろうが。
 晴天の日の午後3時くらいの空と冷たい空気は、陽光が雪に反射して、あたりが光に包まれているにもかかわらず少しずつ陽が落ちていっているのだなとわかる瞬間に似ているきがして、それがなんなのか探ってみたら、ビルのコンクリートの外壁の灰色がかすかに紫色を帯びている色調が、例えば畑に降り積もった雪の畝の陽の陰になった部分の色調を感じさせたのかなと思ったりするのだが、定かではない。アア、あの時見た雪原だとはっきり回想される訳でもなく、何かこの空気、色彩はどこかで体験した感じがあるなというだけなのだが。デジャヴュともちがう。その時点でここではないどこか他所に思いを馳せているのだから。そして意識は既に自分の記憶の回廊を巡り始めている。犬の散歩をする小道。窓の外の絶え間なく降りしきる雪のむこうにおぼろげに見える恵庭岳。窓の結露。湿気をすってふにゃふにゃな本のページ。トタン屋根の青色や赤色。断熱効果のために窓の外側に張ってあるビニール。雪解け時期の、パサパサした粉っぽい町。スパイクタイヤで擦りとられたアスファルトが粉塵となり舞っている。(現在は粉塵問題が深刻化したのでスッタッドレスになった)
 
 記憶の回廊は、私自身が体験したものをこえて、今は亡き母親の語る記憶にも繋がっている。
私の母親の名は、千恵子というのだが、幼い頃から家族からは「チーコ」と呼ばれていた。チーコが幼い頃のある冬の話し。まだ明けやらぬ雪の日の朝、仕事から帰宅したばかりの父親に「チーコ、早く起きて表に出てごらん。」と起こされたチーコが眠気眼をこすりながら玄関の引き戸をあけると、雪の降りしきる薄暗がりの中に何十頭もの馬が白い息を吐きながら立っているのでした。そんな話しを幼い頃、母から聞いた記憶がある。チーコの父、私の祖父は富山からの入植者で岩見沢で農家をしていたのだが、岩見沢に入る前は馬喰もいとなんでいたらしい。でもその家がどこだったのか忘れてしまった。美唄だったかな。それに長い間記憶の中にしまっていたエピソードだったので、私自身でかなり脚色しているかもしれない。

 チーコと馬のエピソードには、それを回想させたトリガーとなった一冊の本がある。
「明るい炭鉱」吉岡宏高 創元社 2012発行
http://www.sogensha.co.jp/booklist.php?act=details&ISBN_5=30043

暗く過酷で劣悪な環境で働く労働者。落盤事故による家族の悲惨な運命。労働争議。
ヤクザまがいのタコ部屋経営。労働者を搾取する資本家。近代化の負の遺産。会社=悪。労働者=善。そんなステレオタイプの炭鉱のイメージを刷新してくれた良書です。リンク先ページの目次を是非目を通していただきたい。そもそも炭坑とはなんなのか。その発生の歴史的理由。採炭から出荷までの作業のプロセス。働き方。会社組織、労働形態。炭坑街の形成。消滅に至るまでの過程。などを左翼的イデオローグに染まらずに、実際に炭鉱会社職員(事務方労務担当)を父に持つ筆者が北海道の炭鉱について、炭鉱の街で生まれ育った者の視線で書き綴る。それは同時に家族の歴史を描く事でもある。しかしたんなる文学的ルポではない。人文地理学や近代史、経済学的視線も取り込んでいながら炭鉱の工学的側面(採炭技術、労働環境整備、物流システム)から社会学的側面(労使関係、コミュニティ、炭鉱街まで含む)を具体例をあげて著述し、炭鉱の全体像をイメージすることができた。そしてそのような北海道のある地域の炭鉱を語る事が、そこに暮らしたある家族の話しを語る事が、やがて世界的な歴史の流れと接続しうることに気づかされた。はたして炭鉱の記憶は負の資産なのか?多くの発見や、インスピレーションが湧いた読書体験だった。

 さてチーコと馬にもどろう。「明るい炭鉱」の冒頭箇所で明治政府による北海道開拓について触れている。開拓時代、炭鉱や鉄道の技術的サポートをするためアメリカからやって来た「お雇い外国人」、彼等はアメリカ西部開拓の終了によって活躍の場がなくなった者や、南北戦争による人生の大きな変換を迫られた者であり、新たな可能性の大地、フロンティアとして北海道を選んだ事が記されている。それを読んで私は、母方の血筋の精神風土形成にアメリカ南北戦争が、アメリカ大陸横断鉄道の完成が、何百分の一、何千分の一でも影響を及ぼしているのだなと妄想した。(ペリー艦隊の来航を考えればすべての日本人はそうなのだが)

 母は、NHKで放送されていたアメリカ西部開拓時代の家族の生活を描いたTVドラマ「大草原の小さな家」が大好きだった。ドラマを見ながら時折、自分の幼い頃の生活とよくにていると話してくれた。不便な開拓時代、貧しいながらも家族愛あふれる小さな家、その生活の描写に、入植時代の自分自身の幼い日々を思い出させるなにかがあったのだろう。
 もしかすると「チーコと馬」のエピソードは、夕食での家族の団らんの際に、TVを見て話してくれたものかもしれない。それとはまた、事実はまったく異なり、雪の早朝の馬の出現自体が、ドラマの中のことで、それを母と共に見ていたというのが本当の事かもしれない。今となっては確かめようがないのだが。でも祖父が馬喰をしていた話しは繰り返し聞いた記憶がある。記憶の回廊の端の方は茫漠としてホワイトアウトした雪の風景にも似て、ふっと何かのイメージが眼前を通り過ぎたかと思うと、気がつけば天地も判別しがたい白い闇みたいなものだな。


 





2013年12月3日火曜日

「目まいをする準備」終了しました!!

萩原富士夫×さそうすなお Oval Dance series vol.1 「目まいをする準備」ダンス公演無事終了しました。立ち会ってくださった皆様、ありがとうございました。危なっかしい二人を支えてくれたスタッフの皆さん、お疲れ様でした。そして二人の素っ頓狂な企てを厳しくも、慈愛あふれる眼差しで見守ってくれたStudioGOOの吉福さん、長谷川さんに心から感謝します。

上演中の躁状態から徐々に、カラダと感情が解かれていく公演後の時間が好きです。高熱を発した病気からの快癒期のようなけだるさと、過ぎ去ったあの濃厚な時間に焦がれる恋愛感情にも似た、そわそわと浮き足立った気分が入り交じった状態。その中で言葉を探り、体験を整理し反省しようとするのだが、たった3回の公演ですら言葉では辿れない深さと豊かさを私にもたらしたのだなと実感している。

初日に黒沢美香さんが観に来てくれた。
「何故ダンスは、かくもかそけきささやかなものを表現しようとするのだろう。」と終演後の雑談での彼女の言葉が心に残る。

演劇や映画にはない「弱さ」が、ダンスの魅力の一つなのかもしれない。身体の有限性を隠すことも騙すことも、ましてや反復できないダンスという方法がもつ本質的な脆弱性。
それは人生の一回性、時間の不可逆性をもとにした、時の流れの中に起こる偶然による未知なるものとの遭遇の肯定を言いたいのではない。同じことは二度と起こらない。然り!
しかしまた生々流転、諸行無常を肯定しているのなら何故、作品という船で上演という形式をもちい時の流れに漕ぎ出すのか。偶然も必然も過去を振り返ればの事なので、船の切っ先にはないのだ。そんな奮い立つ気概に寄り添う様にしてある「弱さ」。

今回のダンス作品「目まいをする準備」の種あかし。
事の起こりは、私が武田泰淳の晩年の作品「目まいのする散歩」に出会ったこと。

『六月の午前七時、久しぶりの好天気に誘われて、山小屋を出る。医師に禁じられた酒をのむと、ついふらふらと無理がしたくなる。外出する必要は全くないのに、庭の坂を登りつめて、門の外へ出た。多少の努力感はあったが、警戒していためまいの現象は起こらない。』目まいのする散歩の冒頭部分。

武田泰淳ははっきり申し上げて今の今まで読んだことがありませんでした。私の友人には、萩原には泰淳が似合うという人もいましたが、似合うと言われると自分を見透かされているようでよけいに読みたくなくなるもので、その発言を聴いてから20年間手にとる事などなかったのに、ふと立ち寄った小さな書店で散歩文学の特集書棚が設けられていて何気なく手に取ると、冒頭の文章、医師に禁じられた酒・・・以降の文にはっと自分の未来が書かれているような気がして、思わず買って一気に読んでしまった。友人はやはり私の本性を見抜いていたのだった。

脳梗塞かなんかで倒れた泰淳がふらふらとよろめきながらあちらこちら散歩する。しかし闘病記などでは決してない。散歩にかこつけてなんでも書いていく。東京大震災や中国大陸での戦争の体験、ソビエト連邦への船の旅、飛行機の旅も散歩にしてしまう。しかも目まいのする身体のドライブ感が心地よい。そして何より私の興味を引いたのが、その文章を泰淳の妻である武田百合子が泰淳の言葉を口述筆記で書いているのだ。そしてそれについて隠すのでもなくしっかり言及しており、時折これは百合子の文章がオリジナルなのではと思わせるところが幾つかあるのだ。多層的な言語空間。豊かな身体性。ユーモア。ニヒリズムを超えた清々しい恍惚感。ノックアウトされてしまった。なんとか作品にできないかと思った。


黒沢美香さんのある作品に参加し、その中で人時計というチームをさそうすなおさんと組むことになった。その稽古の合間に、「目まいのする散歩」の話しを彼女にふった。さそうさんは武田百合子の熱心な愛読者だった。

ということで「目まい」のダンスは始まった。

まずはテキストの読解。そしてテキストのrepresentation=再現前化=表象=上演ではなく、
テキストを二人の関係に取り込み、ダンスを発動させる「問い」の装置として機能させる事を企ての肝にすえた。

往復書簡。野外での稽古をへて一年かけてスタジオワークへ移行した。
わざと遠回りして、試みの中で迷子になろうとするくらい「目まいのする散歩」をしたと今は思う。例えば以下の動画を観ていただきたい。
隅田川の川岸をバルーンを持ちながら散歩した。ルールがある。川下、河口を目指し二人は右岸左岸に分かれた歩く。橋のたもとに到着したら橋を向こう岸に渡り、各々の歩く川岸を交換する。これをダンスとは呼ぶ必要はないが、一つの風景を別の角度から見る事や、対岸の見えない相方の歩行をイメージすることが重要な稽古だと思った。

「川という漢字を見ていると三つ編みにしたくなる。」byさそうすなお
この稽古は川を編む、川編み Kawa-ami と名付けた。
動画撮影 矢尾伸也 




過去を振り返るのはこのくらいで。今回の公演の写真を何枚かアップして今回のブログはひとまず終わり。最後に他者と共同作業することの素晴らしさを教えてくれた、さそうすなおさんに感謝したい。自分の問いかけが、他者の身体、思考、想いを通じてさらなる大きな問いとなって戻ってくる事への驚きと、その問いに対する責任を感じます。
responsibility/ response+ability  責任とは問いに応答する能力なのではないだろうか。
そしてその問いは、私達に先行して存在した、存在するあまたの存在者から引き継がれているのかもしれない。例えば泰淳の文章から私達が問いを見つけた様に。

                  
                    

                                           
                
撮影 矢尾伸也さん 今回また照明の合間に。ありがとうございます。




2013年11月14日木曜日

 萩原富士夫×さそうすなお Oval Dance series vol.1 「目まいをする準備」

ダンス作品を上演します。
黒沢美香&ダンサーズで活躍中のさそうすなおさんと、新しくダンスユニットを作りました。

萩原富士夫×さそうすなお  Oval Dance series vol.1
 「目まいをする準備」

テーブルには、熟した果物、
書きかけの手紙、拡げられた地図。
取り替える事の出来ない記憶を窓から投げ捨てて、散歩に出かける。川へ。
一人は右岸。一人は左岸に分かれて歩く。
向こうに見える橋で落ち合おう。F・H

見えない文章というものがあって、それを二つの違う言語に翻訳し、声に出して読み上げ、互いに聞き合う。そんなような作業をからだでやっていく。何度も何度も。鳥類と魚類ぐらいにかけ離れた生態に従い、泳ぎ、囀り、歩き、張り付いて、空白の輪郭をなぞる。何度も何度も、なぞっていく。
二本の軌跡が隆起して、いつかその間に川が流れ出しますように。S・S


日時 11月30日(土) 19:00
   12月1日  (日) 15:00/19:00
   *各回30分前に開場

料金:予約1,000円
   当日1,500円

場所 StudioGOO   世田谷区粕谷4-7-19 

予約・問い合わせは萩原まで。fujioh3776以下アットマークGメールで。

よろしくお願いします。





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2013年11月13日水曜日

Ashio Project 野点/足尾 無事終了しました。一座建立。

11月9日土曜日。足尾の砂防ダムの向こう側の河原での野点は無事終了しました。
東京出発の頃は曇天。しかし日光道を降りた辺りから時折晴れ間が。
本山精錬所あたりで車を降りて、渡良瀬川沿いをしばし上流に向かって歩く。
龍造寺で、精錬所からの有毒ガスで廃村(1901年)となった松木村の無縁仏と
鉱山を渡り歩いて足尾で死んでいった渡り抗夫の墓に合掌。
銅親水公園に到着した後、みなで資材を持って丘を越える。
長靴を履いて、小川を渡る。いつの間にか吹き出した強風の中での会場の設置。
抹茶は飛ぶし、河原に敷き込もうとしたスタイロフォームは宙に舞い、終いには用意したカセットコンロが不調で点火せず。
叫び声と、笑い声。危機感となるようになれという愉快な気分が湧いてくる。
参加者全員で、シートを抑え、石を重しの替わりとし、河原の石を集めて竈をつくり、そこにライターで着火したガスコンロを置いた頃から風が落ち着く。
ヤカンに参加者がそれぞれ持ち寄った水を入れお湯を沸かした。
私は旧古河庭園で拾った三つの小石を持って河原を歩く。
気に入った石を拾い上げて替わりに東京から持ってきた石をその場に置いた。
松木川の流れで小石を清める。
全員、即席で作られた緋毛氈の上に着席。末席には村田さんが連れてきたバービー人形。まるで依り代のよう。緋毛氈も一つの結界のようだ。
村田いづ実さんが、心を込めて一椀づつ茶を点ててくれる。
空を見上げながら、一口。川の流れの音をを聞きながら一口。足尾の荒涼とした山々を眺めて一口。冬の寒空の下の暖かいお茶は甘露でした。
全員がお茶を頂きお手前は終了。そのまま会場で足をくずしお弁当の時間へと思ったとたん空からぽつり、ぽつりと雨粒が。山の天気は変わりやすい。大事になる前にと、スピードで撤収作業。奇跡的な凪と晴れ間の間に野点は行われたのでした。
写真とムービーはいずれ作品化して公開する予定です。
撮影を担当していた矢尾さんのコメントによれば、茶席に座る参加者は筏にのって漂流している人のようであった。しかもみなお辞儀をして笑っている。とても不思議な集団に見えたとのこと。

様々なアクシデントをへて、いや困難を皆で通過したが故に、主客合一の一座建立がなされたと東京に帰ってからもしみじみ思ってます。写真は足尾から持ち帰った三つの小石。
この小石は足尾鉱毒事件で消滅した旧谷中村・現渡良瀬遊水池に旅します。
もちろんそこでも私達は一座建立を試みます。

2013年11月6日水曜日

Ashio Projectの為のノート3 三つの小石のパフォーマンス



昨日私は、旧古河庭園で、三つの小石のパフォーマンスを行いました。
庭園内に敷き詰められている石の中から、これはと思う形と大きさの石を拾い上げ、近くのつくばいの水で洗い清めました。写真がその小石です。なんの変哲もない石ころですが、この三つは足尾の山に旅します。九日に行うAshio Project 野点/足尾の会場となる河原で、私はあらたに三つの小石を拾い上げます。替わりに写真の小石を拾い上げた場所に置いていきます。足尾の小石は、渡良瀬遊水地の谷中村があった場所に旅をします。そこで谷中村の石と交換します。谷中の石は東京に旅をして古河庭園に置かれることになります。
三つの場所の三つの石を交換するこのパフォーマンスは、田中正造の遺品を見た経験から生まれました。遺品についての投稿は以下リンク先。

2013年11月5日火曜日

Ashio Project  野点/足尾 


足尾銅山。渡良瀬遊水地(旧谷中村)。旧古河庭園。複雑に絡み合った歴史をもつこの三つの場所の風景と記憶をつなぐフィールドワーク。今回は栃木県日光市足尾町で、野点を行います。場所は渡良瀬川の上流、足尾砂防えん堤の向こう側、九蔵川、松木川、仁田元川が合流する地点の河川敷で、足尾の山々を望みながら行います。山の向こう側は、日光中禅寺湖。この時期は紅葉の真っ盛り。しかし足尾の山々は、かつて足尾銅山精錬所から排出された、有毒物質を含む煙によって樹木は枯れてしまい表土が流出し岩肌が露出しています。現在植林活動が進められていますが、いったん失われた緑を復活させることは、そう簡単にはできないようです。砂防ダムが建設されたのも、樹木の消失による山肌の露出が原因となり、雨水によって表土が崩れておこる土砂災害を防ぐため。山が荒れると、川も荒れます。

Ashio Projectは、2009年より始めた萩原富士夫の個人的フィールドワークに賛同した、
村田いづ実(パフォーマー・アーティスト)矢尾伸哉(アーティスト)両名が2012年に加わることで発足したフィールドワーク型アートプロジェクトです。

幾つかの野外実践を試みながら作品を制作していきます。

Ashio Project 足尾/野点 2013年11月9日 正午

場所栃木県日光市足尾町

コンセプト/萩原富士夫 野点/村田いづ実 アーカイブ/矢尾伸哉

お茶会は予約してくださればどなたでも、無料で参加できます。しかし現地は東京から遠い場所です。交通費、ガソリン代がかかります。ちょっとした山道を歩きます。沢歩きではありませんが、小川を渡ります。防寒着、丈夫な靴が必要です。ちょっとした冒険です。興味のある方は是非、私に連絡ください。fujioh3776以下@Gメールで。
行程や装備についてガイダンスいたします。
鉄道利用の場合は渡良瀬渓谷鐵道終点の間藤駅着10時57分着となります。事前に連絡してくだされば迎えに行きます。自動車は、銅親水公園内に無料駐車場があります。
緑の矢印の地点で、茶をたてます。

何回か野点の稽古しました。(私自身はまったくの素人なのですが、村田さんはお茶の師範でもあるのです。)茶碗を持つ両手が空の底にあり、すうっと喉を通り胃に落ちていく暖かいお茶が、更に大地に向かって浸みていく、そんな感じを得ることがありました。


航空写真でみると足尾の山が他の山と比べて荒れているのがわかります。
緑の矢印の地点で茶を点てます。




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2013年10月27日日曜日

Ashio Projectの為のノート2 田中正造の3つの小石。

少々前の話になるが、9月7日に田中正造の遺品を、佐野市郷土博物館で見た。今から100年前の9月4日に田中正造は亡くなった。支援者を訪ね歩く旅の途上で正造は倒れる。病床の枕辺には菅笠と信玄袋。袋の中には大日本帝国憲法とマタイ伝の合本。福音書。日記。ちり紙。川海苔。河川調査の草稿。そして小石が3つ。憲法や聖書はわかるのだが3つの小石をなぜ持っていたのか。遺品については評伝で読んだことがあるのだが、その時も3つの小石の事が気になった。官兵や、正造と敵対する陣営と闘争状態になった時の護身用で、投擲するものかと思ったりもした。

博物館のキャプションで真相を知る。私財をなげうって、足尾鉱毒問題に取り組んでいた正造の晩年は大変貧しかった。そんな正造のささやかな楽しみは出かけた先で見つけて気になった路傍の小石を拾うこと。そして彼は、彼の支援者に一宿一飯の返礼として、書をしたためその小石をそえて渡していたのだそうだ。

正造の日記にこういう記述がある。

正月九日 うつの宮ニ来泊す。思うニ予正造が道路ニ小石を拾うハ、日なる小石の人ニ蹴られ車ニ砕かるるを忍びざればなり。海浜に小石の日なるを拾ふハ、まさつ自然の成功をたのしみてなり。人の心凡此くの如シ。我亦人と同じ。只人ハ見て拾わず、我ハ之を拾ふのみ、衆人の中ニハ見もせずして踏蹴る行くもの多し。
田中正造全集十三巻384頁 日記 大正2年(1913)1月

正造は小石に、大地に生きる名も無き人たちの姿を見いだしたのだろうか。遺品を前に、小石に託した正造の気持ちに想いをはせた。学芸員の説明によると、支援者の家には今も正造から受け取った小石が大事に保管されているそうである。