2013年6月3日月曜日

移動すること。記憶を辿ること。風景を読み解くこと。その2北海道に行ってきた。

5月20日、北海道岩見沢の叔母が亡くなった。恵庭に住む弟より夕方訃報が届く。翌日幾つかの業務を片付け北海道に向かう。北海道に行くのは一年ぶり。だけど前回も葬儀だった。若い頃と違って旅行目的の飛行機には随分と乗っていない。
今回は羽田からではなく、茨城空港から飛ぶことにした。正直言ってANAやJALは高い。半額位で行けるのだからものは試しと、スカイマークで行くことに。西日暮里の自宅から羽田空港までの所要時間も一時間くらい。ならば自宅から車で高速で茨城に行くのと大して変わらない。午後3時位に出発。常磐自動車道を一時間走り、千代田石岡ICから一般道を20分ほどで茨城空港。

一般道を運転している私に、デジャブのような変な気持ちが生まれる。初めて走っている道のはずなのに、なぜかすでに訪れたことのある土地のように見える。未だに風景の見え方が、一週間前に観た佐々木友輔監督作品「土瀝青 asphalt」の影響下にあった。(土瀝青については前回のブログを参照されたし)佐々木が撮影したかもしれない、のどかな茨城の田園地帯に茨城空港はあった。茨城空港は軍民共用飛行場で航空自衛隊百里飛行場の民間施設のことを言う。空港に到着した時、戦闘機が轟音と共に離発着訓練をしていた。爆音のとぎれた合間に、雲雀が空高く囀りながら飛んで行くのが見られた。基地周辺に特有の緊張感とのどかさの同居した風景。


離陸。格安航空機、窮屈さを別段感じなかった。一時間ほどの飛行なら問題ない。窓から三陸の海岸を確認。種差海岸、やがて八戸。高校時代を過ごした八戸、三沢の街を空の上から眺める。自分が住んでいた時は、街を空からみたことはない。住まなくなってから見るようになった。とても遠くに感じる。小川原湖、六ヶ所村も見える。八戸の鮫のあたりから下北半島尻屋崎の手前まで砂浜が繋がっている。長い砂浜。浜に打ち寄せる波頭が白く浮かび上がって見えた。

着陸。きりっとヒンヤリした空気。北海道だ。JRで空港から恵庭へ移動。そこで弟と合流。弟の運転する車で岩見沢に向かう。水田地帯の道を行く。水を入れ始めた田では蛙の声。
夜の道路で見慣れぬ光る矢印の道路標識。弟に聞くと道路の端を指し示すもの。ひどい吹雪の時など、どこが車道かわからなくなる。その時その光る矢印をたよりに運転するのだそうだ。LEDと太陽光パネルの普及で光るタイプが増えたようだ。20年前もたしか矢印はあったと思うがあんなに光っていただろうか。動画は助手席の私が撮影。弟はさらに防雪柵について運転しながら説明してくれた。北海道ならではのインフラ設備。




葬儀会館に到着。通夜に参列。涙。翌日告別式。涙。恵庭に戻る。

途中JR岩見沢駅に立ち寄る。2009年グッドデザイン賞を受賞した駅。
駅舎建設にあたり寄付した人の名前と出身地が刻印された煉瓦。1階外壁

ガラスと古い鉄道レールが融合している

有明連絡歩道
連絡歩道内部


















              岩見沢駅舎は三つのブロックで、できている。有明交流プラザ。岩見沢駅。有明連絡歩道。交流プラザはホールやギャラリー、市役所のサービスセンター、店舗など。連絡道が立派なので通路以外の使用はあるのかと思い(例えば移動販売等の仮設店舗)東京に戻ってからだが、管理団体に問い合わせをしたところ、あくまでも通路としての使用のみだそうだ。東京近郊ターミナル駅のエキナカビジネスの興隆とはほど遠い地方の現状がある。プラザと連絡道の所有は岩見沢市。今のご時世、維持管理は大変だろう。

途中みつけた雪捨て場。まだ雪は溶けていない。重機で溝を掘っていた。太陽光が中まで入るようにしているのか?廻りの温度との差があるのだから、その差をエネルギーに変換できたらよいのだが。マイナスの方の差なのでエネルギー転用は難しい。川に流せば良いのではと弟に聞くと、氷の塊を大量に河川に流せば水門や堤防を破壊する事になるから無理だそうだ。しかも河川敷を雪捨て場にしている自治体が多いが河川敷は国交省の管理下。つまり地方自治体は国から河川敷を雪捨て場として借りている。期限付きで。5月いっぱいだそうだ。それまでに雪を撤去してしまわないと降雨量が増える時期となるので河川の治水管理がうまくいかなくなる恐れがあるのがその理由らしい。はたして現在、恵庭の雪はとけただろうか。



昼に恵庭に着。父の命日も間近なので日にちを繰り上げ、住職を呼んで法要をしてもらった。その後千歳空港へ。復路もスカイマークで茨城空港に降りた。19時半に帰宅。気温差10度くらいだろうか。生暖かい空気。


グローバリゼーションの進行の結果どうかわからないが、日本中どこにいっても同じようなファスト風土、均質な空間に出くわす。アウトレットモール、ファミリーレストラン、コンビニ、街道沿いの量販店。しかしそれぞれの土地が抱えている固有の問題も、また同時に目につくものだと今回の北海道行きで感じた。通信革命、流通のダイナミックスも地表から地理的差異を完全に消滅させることはできないのだろう。


2013年5月26日日曜日

移動すること。記憶を辿ること。風景を読み解くこと。その1「土瀝青 asphalt」を観てきた。

人間は自分自身の目で見た風景、耳で聞いた音、肌で感じた空気でできていると感じることがある。日々食べる食事や、文学や音楽の経験などによっても、その身体や情緒は構成されているのだが、食べ物は美味しかったり、小説は面白かったりするので、すんなり身体の内側、心の中に入り込んでしまい「私」という存在の輪郭をかき乱すことなく「私」の滋養となる。一方、風景は海は海だし、山は山でしかなく、どんなに名勝であったとしても数分で飽きてしまい、本物を見ても絵葉書をみているかのような錯覚におちいるかと思えば、通勤で通る道の夕暮れ時の景色の中に、自分の幼い頃の思い出が、時と場所を遙かに隔てているのにも関わらず突如としてフラッシュバックして途方にくれたりするのだ。そんな時は、かつて読んだ小説の一節を想起するよりも前後の脈絡が曖昧でいながら、周囲の匂いや音や空気までもが再現されて「ああ、懐かしい。」としみじみ感じ入ってしまう。そこで記憶を呼び覚ましたトリガーを探そうとした瞬間に、とうの記憶の情景が消えてしまい一体何で感じ入っていたのか分からなくなる。そんな自身の意志では制御できないのに関わらず、己の存在の基底を構成する要素が風景にはあるようだ。

5月12日に佐々木友輔監督の新作映画(2013年/186分)「土瀝青 asphalt」を観てきた。素晴らしくも奇妙な映画、なんとキャストが「道」なのだ。道。それも商店街の真ん中を通る道であり、水田地帯を通る農道だったり、郊外型大規模店が立ち並ぶ国道の道である。これじゃなんのことかわからないな。私自身も、その濃厚な映画体験からうまく抜け出せないで悶々としているので少しずつ整理するつもりで思い出して書いてみよう。

まず佐々木友輔は自転車に乗る人だ。乗ってる自転車はロードレーサータイプじゃないと思う。MTBか?意外とママチャリかもしれない。彼は自転車に乗ってビデオ撮影する。片手運転で撮影する。何を?彼が自転車に乗って走る茨城県の街を、郊外を、農村を、茨城県の様々な場所を。なぜ茨城県なのか。彼は東京芸大大学院に在籍し取手にいるらしい。2011年の刊行の「フローティング ヴュー」という書籍に書かれた経歴によればだ。ちなみに出身は神戸だそうだ。だから茨城県は彼の日常的な活動領域ということだ。そしてひたすら彼は自転車で走り回る。そしてひたすら片手運転で撮影する。しかもスタビライザーなんか使わない。だから手ぶればっかり。時には関東常総線に乗り列車で移動しながら撮影することもある。友人の運転する(推測)自動車に乗りながら助手席で撮影することもある。歩きながら撮影することがある。でも基本手持ちのようでやはり手ぶれ画面だ。

此処まで書いてもまだ分からないと思う。

その流れる手ぶれの風景の量がとてつもない。記憶が正しければ2010年後半くらいから始め、今年の早春にかけての二三年にわたって、茨城県内各地を走り回って撮影された風景が場所や季節、天候や昼夜を変えて繋ぎ合わさっていく。桜。田植え。夏祭り。駅前のイベント。コンビニ。五浦の岡倉天心の六角堂。利根川の河川敷。カラスウリ。カエル。葬式。雪。住宅街。巨大スーパーなどなど。それが3時間続く。それはさぞや退屈な映画だと思われるかもしれないが、それが全くの反対で3時間があっというまに過ぎてしまった。

ここで大きな映画の要素を書かねばならない。茨城各所の風景の映像に、小説を朗読する声が被さる。声の主は若い女性。朗読される作品は長塚節の「土」。現在の常総市出身の作家。この小説の内容の凄いこと。明治期の茨城県に住む貧農家族の悲惨な暮らしを写実的に描き出す小説。明治43年1910年に東京朝日新聞に連載されたもの。長塚節は正岡子規の門人。だから写生ですよ。冒頭はこんな感じです。
「烈しい西風が目に見えぬ大きな塊をごうつと打ちつけては又ごうつと打ちつけて皆痩せこけた落葉木の林を一日苛め通した。木の枝は時々ひうひうと悲痛の響きを立てて泣いた。」怖いですよね。思わず謝りたくなります。登場人物の会話は、茨城弁です。小説だから色々なことが起こります。お父さんはお百姓さんなんだけど現金を得るため土木工事のアルバイトに行ったり、働き者の奥さんが病気で死んで、奥さんの亡骸を納める棺桶の蓋が閉まるように首の骨が挫けるまで荒縄で縛り、娘が年頃になって村の若者からちょっかいを出されるのを父親が諫めたり、田植えがあり、夏祭りがあり、家を離れていたおじいさんが戻ってきたけど、リウマチで苦しんでいたり、家が燃えてしまったり、弟は頭に火傷をおったり、そらりゃもういろんなことがおこります。良いことは少ない。長塚節の土は未読の作品ですが、ヘビーな内容なのでたぶんこれからも読まないでしょう。しかしそんな小説ですがなぜか聞き入ってしまいました。

なんでだろう?

朗読の菊地裕貴の声の質、技術力。それもあるだろう。初めてテキストを読み上げるような初々しさと同時に、芯の強さを感じられる朗読。朗読の声が小説の重要人物である娘の「おつぎ」にオバーラップできなくもない。娘が家族想いでやさしくて、いいこなんだ。(まあこれは私のようなオヤジが受ける印象なんでしょうが。)

でもここでジェンダー論や、文学や、深層心理でこの映画を考えたくない。

やはり映画の構造に秘密がある。

声は幾つもの季節の移り変わりを語る。春が来て、夏が来て、秋になり、冬が訪れ、再び春が来る。四季の移り変わりを語っていく。それぞれの季節にシンクロするように桜の花が、田植えの様子が、街道沿いの紳士服量販店前で行われている夏祭が、夕立が、冬枯の河川敷の緑地帯が映し出される。そして季節の移り変わりは、さらに循環して物語の時間の経過を表している。物語は5年の歳月を語っていく。映像は5年分の季節の循環を映し出す。自転車に乗り移動する視線の映像が、物語の時間に同期する。空間の移動が、物語の流れとなる。
この映画は朗読と茨城各地の四季折々の風景の映像で、『土』と云う小説を映画化したものではない。
小説に描かれた土地の百年後を巡るロードムービーだ。貧困に喘ぐ家族が踏みしめていた土は、現在、瀝青(アスファルト)に覆われているかもしれない。巨大ショッピングモールが建っているのかもしれない。駅に向かう通勤通学路かもしれない。その場所は呪われているのか、それとも祝福されているのか。確かに映画の中では、竜巻被害で倒壊した家屋、放射性物質により汚染された立ち入り禁止区域が映し出されていた。岡倉天心の六角堂も、高萩の海岸もあの日の津波で大きな被害があった場所だ。ただ佐々木友輔の視点はそれらの事実を災厄としてのみ捉えているようには思えないのだ。反対に映画的愉悦すら感じる。語られてる家族の身体も、ペダルを漕ぐ佐々木祐輔の身体と同期し、風を切る疾走感と熱を帯びた心地よい疲労感に変容すると言ったら言い過ぎか。100年前の自然主義の小説がロードムービーに変化し、そこに映し出される風景が身体化されていく。「郊外」と一言で片付けられない固有性と磁場をもった場所に変わって行く。そう場所だ。佐々木祐輔は風景という言葉を回避しているようだ。映画のチラシに書いてあるコピーは以下のもの。

「風景」という概念を乗り越え、隠された基層の秩序を捉える〈場所映画〉

風景という語には、遠近法的パースペクティブを前提とした不動で安全な場所にいる視点を想起させるかもしれない。そして場所という語には、鑑賞者ではない、より能動的な視点をこめているのだろう。その視点は、旅や放浪といったロマンティックな言葉とは無縁だ。即物的な移動する視点だ。そして冷静さとユーモアも兼ね備えている。
時たま移動ではなく食事のシーンがある。自転車をおりて立ち寄ったラーメン屋であったり、年末年始実家に帰省して食べる餅であったり。そのなんと自然で平凡で日常的な光景であること。そこに佐々木友輔の現実に対する態度があるような気がする。同じく時折挟み込まれるスマートフォンの液晶画面やPCやテレビの画面などを使ったイタズラも愉快だ。

そしてこの作品に仕掛けられた映画的愉悦はエンドロールに集約される。この映画はドキュメンタリーではないので、5年間の歳月の物語を5年かけて撮影しているわけではない。同時期に撮影した異なる場所の映像を五つに振り分け5年の歳月を表現している。それを観る人は5年分の場所の移動として観てしまう。つまり場所が、道、が演技をしているのだ。エンドロールには一年目、夏、どこどこの通り。と駅前ストリートや、国道の名が撮影日と共に表示される。時折食事のシーン等で登場した人物名が現れるので、なおさら「道」の俳優性が高まるのだった。そしてそれらの名優達の名前を確認しながらあっという間に3時間の作品は終わったのだ。

長々と書いたがはたしてこの作品に追いつけたか。いや追いつけまい。しかし機会があれば又みたい映画だ。


























2013年5月2日木曜日

町歩きの心得。薄い街とカラミ煉瓦。

「僕が考察するに、この世界は無数の薄板の重なりによって構成されている。それらはきわめて薄く、だから、薄板面にたいして直角に進む者には見えないけれど、横を向いたら見える。しかしその角度は非常に微妙な点に限定されているから、よこの方をみたというだけでは、薄板の実在をたしかめることはできない。そして現実はわれわれが知っているとおり、何の奇もないものであるが、薄板界はいわば夢の世界であって、いったんその中へ入りこむならどんなことでも行われ得る。ぼくの月世界旅行はこの薄板界という別箇の存在を通路とするから、恐ろしい闇を片側にともなって輝いているコペルニクス山も、タイコ山も、虹の入江も、雲の海もすぐお隣である。──いったいここにきみとぼくという二人が、この限定された時間と空間の中にいることが事実であるなら、それと同様、同じきみとぼくが、また別な時間と空間の中に存在することも可能ではないか──若しそれが夢であるなら、いまここに、このわれわれが歩いているというのもひとしく夢でなければならない・・・・・・」
稲垣足穂「タルホと虚空」より引用。

現実世界の時計の針が刻む秒と秒とのあいだに、ある不思議な黒板が挟まっている。そののもはたいそう薄い。肉眼ではみとめることができない。けれどもそれらの拡がりは広大無辺である。
中略
肉眼で見えぬものを何によってみとめるか?一口に云うなら、それは、まっすぐに進む者には見えない、けれども、よこを向いた者には見られると云う条件下にある。
中略
──吾々が道を歩いている時、飾窓や音楽や、人や、自然物に奇をひかれてひょいと首をまげさせられる。これは、実は、春の野辺に立つ糸遊のごとくに、デリケートな薄板が、それらの物象を借りての誘惑なのである。若しもこんな時、吾々の視線が適当な角度に合致したならば、吾々はその音楽なり容貌なり花なりを媒介として、はても知られぬ美の王国へはいることをゆるされるはずであるが、おおむねの場合、かおをまげる運動がかすめた切点によってのみ黒板を瞥見する。だから、その奥に無数に重なり合って存在している薄板界など全く気づかないですぎてしまう。そうかと云って、先にも述べたように、この個別な存在を全然知らないわけでもない。よく脇見をする人がある。これなどは、黒板がちらッとかれの網膜上をかすめただけでもすでに異常な感覚が与えられるので、この瞬間の何云うともない夢心地を無意識裡に求めているのだ、と説明される。
稲垣足穂「童話の天文学者」より引用。

20数年ぶりに稲垣足穂を読み返している。高校生の頃、一千一秒物語に出会ってから20代の半ばまで足穂が愛読書だった。ところがある時からぱったりと読まなくなった。青春文学ではないが、ある年齢じゃないと受け付けない作家じゃなかろうか。ではなぜ今タルホを読んでいるのか?先に引用した薄板界の存在が、その理由とでも云える事態に遭遇したからである。

題して、「果たして緩(カラミ)煉瓦はそこに有ったか。」

事の始まりは一冊の本、「日本の地霊ゲニウス・ロキ」鈴木博之著・講談社現代新書読んだことから。鈴木氏は北区は王子神社の境内の敷石に見たこともない一風変わった煉瓦が使われているのを見つける。後日その煉瓦は銅山で銅を精錬する際に発生するスラグ(滓)を再利用した煉瓦だと云うことが判明。足尾銅山の煉瓦ではないかと鈴木氏は推測する。

遅れてきた近代遺産探検家(自称)として、Ashio Projectのメンバーとして、足尾銅山と云うキーワードに、私は反応しないではいられない。しかもブツは近所の王子ときた。早速、田端駅から京浜東北線に乗り、王子神社に行ってみた。
(Ashio Projectに関してはhttp://fujioh3776.blogspot.jp/2013/04/ashio-project.html

境内の敷石をくまなく見て回るのだが、それらしきブツにはなかなか出くわさない。もしかしたらコレなのかな、というものはあった。それがこの写真。


実はこの写真後日撮影したもの。はじめて王子神社に探しに行った時は天気は曇り。それは周囲の敷石とはことなる質感であったが、やや赤みのある黒い石のように見えた。私には煉瓦とはわからず、写真を撮らなかった。それというのも足尾で見た煉瓦の印象と異なっていたからである。これが足尾のスラグを再利用した煉瓦。王子のものより目が荒く、黒みが強く、なんと言っても大きさが小さい。
足尾銅山 愛宕下社宅跡地にのこる防火壁
その日は、午後から夜間にかけて現場の仕事が入っていたので、自分が誤った場所を探しているのかと思いながらも、調査を中断しその場をあとにした。再び京浜東北線に乗り田端駅で下車。北口改札を出て旧田端大橋を渡り東田端の商店街を抜けて自宅に向かった。その道は田端駅を利用する際に必ず通る道であり、私は数え切れないくらいの回数、そこを歩いている。もちろんその日の朝も歩いている。なのにだ。わたしはある建物と建物との間の、1メートルくらいの空隙を前に訳も分からずハッとして、急に立ち止まった。自分で立ち止まっておきながら、自分の行為の結果に驚いた。そこに先程、王子神社でみた例のブツがいくつも転がっているではないか。これがその写真。


半分に割れているものもある。流体的な質感がある。

スラグ煉瓦に違いないとその時確信した。王子に戻って写真を撮ろうとも思ったが、時間の余裕がなかったのであきらめ後日行くことに。それが最初に掲載した写真。それにしても不思議だ。朝駅に向かうときには全く気づかず、王子でも確信が持てないまま戻ってきたのに、よく視界の片隅のその存在に気がついたものだ。しかも王子神社のものは地面に埋まっているのだから、全体像が掴めてないのにもかかわらず。

探している時は、見つからない。見つかるときは微かな気配でもぱっとわかる。失せもの、捜しものの法則だが、人間の無意識領域における視覚情報の走査能力は凄いものがある。まさしく足穂の「薄板界」だ。脇見をしながら歩く技術を、フィールドワーカーは習得しなければならない。

一週間後に休みが取れたので、再び王子神社へ。その後、鈴木氏の著作より新橋住友ビルにエントランス廻りに煉瓦が使われているとの情報から新橋に移動。住友ビルへ。




別子銅山・四阪島精錬所で作られた煉瓦。緩(カラミ)煉瓦という名称を持つことが分かった。スケールであたると田端、王子神社の緩煉瓦と同じ大きさであった。縦45㎝×横22㎝×厚み15cm。田端、王子とも四阪島で生産されたものか?ここでまた謎が生まれた。


いったんこれだけの緩煉瓦を認識すると緩煉瓦レーダーの様なものが私の身体に装着されたようで、更に一週間後、Ashio Projectとは別の作品制作の為北区の隅田川沿いをリサーチしていたところまたもや偶然に発見してしまった。まずはこんな形で。

真ん中の物体が緩煉瓦。


同じ敷地内には、他にも緩煉瓦がいくつも無造作に転がっていた。

この日は川をテーマにしたダンス作品の為、隅田川をリサーチしていたのだが緩煉瓦レーダーは無意識の領域でしっかり稼働していたようだ。やはり脇見をしたときに発見。

更にネット上で下記の情報にヒットする。
日産化学工業の王子工場(日本最初の化学肥料を製造する会社。王子工場は現在の豊島5丁目団地がある場所あった。)で、日露戦争勃発による銅の軍需が増大した1904、1905年頃に、硫酸製造の過程のなかで生まれた物質から銅を精錬し、その際生じたスラグをリサイクルして緩煉瓦を製造したとある。足立区では、土留め、塀、商店のシートの風よけの重し、車よけ等に使われたとも。

だんだん分かってきた様な気がする。王子神社、北区隅田川沿い、田端の緩煉瓦は日産科学工業産なのではなかろうか。四阪島のものと大きさが同じなのは固める容器の規格が同じだったのだろう。
そして日露戦争が近代史においては重要なキーワードであることを改めて実感。

足穂の薄板界、薄い街はファンタシューム化合物が結晶化した幻想と詩的情趣に溢れた世界なのだろう。その世界に今の私の心は、もうときめくことはないが、脇見歩行の必要は今もなお、大いに賛同する。脇見歩行という身体行為によって遭遇する小さな事物が、やがて連関をなし、現在の日常世界に通じる歴史がだんだんと見えてくることが面白い。

──そこはいったいどこなんです。
──どこでも!
──どこでもですって?
──そうです。この街は地球上に到る所にあります。ただ目下のところたいへん薄いだけです。だんだん濃くなってきましょう。
稲垣足穂「薄い街」より引用













2013年4月16日火曜日

Ashio Project

場所。歴史。風景。廃墟。近代化。自然。共同体。建築。都市。テクノロジー。明治。政治。文化。西洋と日本。古河市兵衛。渋沢栄一。田中正造。ジョサイア・コンドル。そして名も無き多くの鉱山労働者。農民。etc.etc....
様々なキーワードを心の中で反芻しながら、折を見てたびたび訪れている足尾銅山、渡良瀬遊水地旧谷中村、そして日々の散歩コースの古河庭園、この三つの場所をつなぐ行為を考えていた。複雑にからみあった歴史。それぞれの場所の強烈な磁場。フィールドワークというほど大層なものはやっていないが、訪れる度に新しい発見がある場所。風景の知をいかに身体で読み解くか。思いは膨らんでいく。

足尾銅山2009年8月撮影
渡良瀬遊水地・旧谷中村跡地2012年12月撮影
古河邸2012年12月撮影
去年の秋、ダンサーでありアーティストの村田いづ実さん、同じくアーティストの矢尾伸哉さんを巻き込んでAshio Projectを立ち上げた。まずは茶道の師範でもある村田さんによる三つの場所での野点で、様々な人にお茶とともに、あの風景を体験してもらおうという企画が生まれた。

風景の知を身体で読み解くために。
場所を言祝ぎ、他者を歓待するために。


そして野点を、プロジェクトのひとつの方法論に決めたことより、岡倉天心の「茶の本」を参考資料として読む。足尾鉱山鉱毒事件の経緯、谷中村(現渡良瀬遊水地)廃村の悲惨さ、田中正造の壮絶な生き様は、岡倉天心が「茶の本」を執筆する動機と実は深くつながっていることを知る。キーワードは日露戦争。



自分に存在する偉大なものの小を感ずることができない人は、他人にある小さなものの偉大さを見逃しやすい。一般の西洋人は茶の湯を見て、東洋の稚気を構成する例の無数にある奇癖の一例にすぎないと、心ひそかに思っているだろう。西洋人は日本が平和な文芸に耽っていた間は、野蛮国と考えていたものである。ところが日本が満州の戦場に大虐殺を行い始めてからは文明国と呼んでいる。最近武士道──我が兵士に喜んで身を捨てさせる死の術──については盛んに論評されて来たが、茶道については、この道が我々の生の術を多く説いているにも拘わらず、殆ど関心が持たれていない。もし文明ということが、血腥い戦争の栄誉に依存せねばならぬというならば、我々はあくまでも野蛮人に甘んじよう。我々は母国の芸術と理想に対して、当然の尊厳が払われる時季がくるのを喜んで待つとしよう。──「茶の本」ちくま学芸文庫 櫻庭信之訳 9頁より引用。

多くの公害被害を出し、谷中村を廃村に追い込んでもなお操業を続ける足尾銅山。当時の世界情勢の中で日本が置かれている状況。銅の輸出による外貨獲得。その資金を元にした軍備の増強。急速な近代化による光と闇。それらの事象の複雑な絡み具合は、例えば、以下のリンク先の小出五郎氏の論考が示してくれている。
http://www.sonpo.or.jp/archive/publish/bousai/jiho/pdf/no_244/yj24428.pdf

田中正造、岡倉天心、二人には接点はない。ただ同時代に生きた人物ということだけである。しかし1901年(明治34年)の田中正造の天皇への直訴から、1907年(明治40年)の谷中村廃村にいたるまでの間に日露戦争(1904〜1905年)はもとより、岡倉天心の主な著作が欧米で出版された時期も重なる。そしてなにより象徴的なのは、正造は1913年(大正2年)9月2日、天心は同年9月4日に没している。わずか2日違い。両者の死は明治維新から始まった「日本というプロジェクト」が方向転換した指標のようにも感じられるのだ。いや方向転換はなかったのだろう。正造、天心が思い描いた日本が消失しただけなのかもしれない。

1916年(大正5年)の統計によると足尾には38,428人の住民がいた。これは当時の宇都宮の人口に次ぐ数字である。翌1917年(大正6年)谷中村はとうとう無人の地となる。同年ジョサイア・コンドルの設計により古河財閥三代目当主古河虎之助邸宅が完成。時代は下って1973年(昭和48年)足尾銅山操業停止。その後2006年の統計では足尾の人口は3220人。100年たった谷中村・渡良瀬遊水地は、多種多様な動植物・鳥類が生息する生態学的に貴重な場所となり、去年ラムサール条約登録湿地となる。

先日、村田いづ実さん、矢尾伸哉さんと日暮里のルノアールでミーティングをしたのち、谷中の日本美術院跡地を三人で訪問。

Ashio Projectは次は茨城の五浦を目指すだろう。天心の六角堂を前に「茶の本」をもとにしたパフォーマンスをすることになるだろう


谷中日本美術院跡にて 矢尾伸哉撮影













2013年1月17日木曜日

風景/身体/視線 「季刊タカシvol.17 初春」崟利子映像作品を観てきた

 東京に雪が降った翌日の夜、隅田川は永代橋の袂(右岸)にあるギャラリーマキで、映像作家・崟利子の新作と過去の代表作の2作品を観てきた。
最新作は、黒沢美香&ダンサーズが去年11月に行った青森県八戸ツアーに同行した5日間をもとにした作品。ツアー詳細 http://nangoartproject.jp/dance-jazz.html
私にとって八戸は、親元を離れ下宿暮らしをしながら高校に通った土地、色々な思い出のある第二の故郷の様な場所。そこで我が敬愛するダンサー黒沢美香が踊ったと聞けば観にい行かないはずがない。そして、もしかすると、あの時見上げたキーンと澄み切った晩秋の秋の空が、漆黒の闇の中から次々に地上にふりしきる雪の景色が見られるかもと、淡いノスタルジアのような気持ちを、心のどこかにいだいて上映会に臨んだ。
ギャラリーHP http://www.gallery-maki.com/
 しかしそんな中年男の小っちゃな郷愁などあっけなく吹き飛ばす、冷静で深みのある作品に出会えた。未見の作家の作品に出会っていつも思うのだが、なんでいままでこの作家の活動を知らなかったのかと悔やむ、と同時に、世界にはまだまだ自分の知らない興味深い面白いコトはある、素晴らしい活動をしている人はいるということにワクワクする。
 上演は崟利子の代表作「伊丹シリーズ」から始まった。何の変哲もない住宅街の十字路を中心に固定されたビスタの映像。細い通りを、人が、自転車が向こうからやってきて、画面の外に消えていく。固定されたフレームの中で、歩く人は出現と消滅を繰り返していく。当たり前と言えば当たり前の光景の中、一人の作業員が中央の電信柱をよじ登っていく。自動車がその電柱の脇を右折して画面の中央に出現する。そして自動車は画面の外へ消えていく。作業員は電柱に登ったまま。夏の昼下がり。
 映像はフェードアウト・インを繰り返しながら固定されたフレームで様々な街の風景を、異なった時間帯で映し出していく。映像の中に、人々は出現し、そして消えていく。
夕方の空であろうか、あかね色の空の遠くに飛行機が飛んでいた。やがてテキストを朗読する声が映像に被さってくる。その声を聴くことは私には初めは苦痛に感じられた。スタティックだが、十分に豊かな映像を観るという行為と、散文詩のような詩的言語を聴いて理解する行為がうまく調整できなかった。声は、やがて視界から消え去っていく者達との交感不可能性について言及して終わる。なんだか、喪の体験が基底にあるようだと感じられた。映像は夏の盛り、寺社での主教儀礼の様子を映し出す。今度はカメラはゆっくりと旋回しながら周囲を映し出す。寺の敷地では、夏祭り。
 視線の変化はなんなのか。街角の風景のスケッチから、そこに現れた人々に少しばかり意識が接近したように感じた。朗読されたテキストが、テロップで画面に現れる。消え去った人にどのようにして、呼びかけをすればよいのかわからない。そんな内容だった。テキストの言葉が心にしみこむ。盆踊りの光景。夜の小川。
 映像は、やがて秋になった街の通りの様子を固定したフレームで淡々と映し出して終わっていく。映像を観ていて、これは一体誰の視線なのか考えた。街を俯瞰する上方からの視線ではない。そこに出現と消滅を繰り返す人々と同じ位相にある視線。位相は等しいが歩く人たちに、圧倒的に距離感を感じる。夏祭り会場で旋回した視線も、周囲を映し出してはいるが視線の主体性は希薄だ。ひょっとすると画面=世界から消え去った死者達から眺めなのかもしれないとも感じた。
 つぎに八戸ツアーの作品。黒沢美香&ダンサーズの作品は、JAZZという音楽の方法論をもとにした「jazzzzzzzzz-dance」。JAZZの様に、一見自由度が高そうに見えるダンスだか、ミニマルな振付がされており、ベーシックになる振付にダンサーが内在しないと成立しない作品。ダンスでjazzを泳ぐと、黒沢が書いているように空間のあちらこちらでダンスが生まれ、デュオになり、トリオに成り、ユニゾンに成り、そして散開し、また集合を繰り返す。いままでにも何回も上演され、上演の度に、Zの文字が追加されていく。(私は初回と、その7個目のZを観ているのかな。)勿論、とってもグルーブ感のある作品。
 さてそんな沸き立つ感じのある作品に、崟利子は自らの方法論を崩さずアプローチしていく。稽古の様子、本番の上演、移動風景、休息時間などを、伊丹の街の風景を撮ったように固定した視線で淡々と映し出していくのだ。単なるダンス作品のドキュメントではない。画面の右から左に、二人一組になったダンサーが同一のモチーフを繰り返しながら現れては、消えていく。それに被さる黒沢が振付をする声。ダンス作品の全貌を伝えるのではなく、ダンスを成立させる個々のダンサーの身体の、その運動する四肢の、一瞬一瞬の表情を冷静につかみ取っていくのだ。まるで橋の上から川面の様子を凝視するかのような態度。風景としての身体をそこに見いだす。
 わたしはかねがねダンスというものは、それを意図した瞬間に生まれ成立する、もしくはそうありたいと願うものだという思いがある。同じステージワークである演劇は、その開始にあたってある種の欠如を前提とし、観客と共にその欠如を補完していく。ダンスは補完すべき欠如を持ち合わせていない。ダンスは存在の現前性をもって開始する。あたかも、山や海や川のように。風景には変化はあるが開始と終了はない。ダンスという風景の中を人が通過していくのだ。(しかしこの考え方は私の悪い習性なのだ。ダンスを、ダンサーや振付家や観客の外部に追いやって、思考不能にしてしまう。密教?)
 映像の中で、出現しては消えていくダンス。それはまるで伊丹の街の往来を通過して消えていく人々のイメージに連結する。途中、劇場ではなく住宅街の風景の中で、一服をしながら沈思黙考しているひとりのダンサーの姿が映し出される。その路傍にしゃがみ込む姿勢や立ち上がって伸びをする行為がまるでダンスをしているように感じられたのが不思議だった。そして繰り返すまた同じ疑問。果たしてこれは誰の視線なのか。
そして終演後であろうホールの外に降りしきる雪の情景が、前日の東京の雪とシンクロし、八戸の冷く凍てつく冬の空気を思い出して身も心もキュッとなった。















2012年10月13日土曜日

雑記 廃墟についてあれこれ

10月4日上野桜木K's Green GalleryでおこなったPaul Weihs氏の映像作品上演会には、多くの方々に足を運んで頂き誠にありがとうございました。そして私どもの急な申し入れを快諾し会場を貸してくださった熊井千代子様、改めて感謝申し上げます。上映会後は質疑応答の時間を経て谷中の五重塔跡公園にて集団即興セッション「谷中会議」を一晩だけ復活させる予定でしたが、「Letter to Tokyo─東京への手紙」を上映している最中に、作品中の降雨に呼応するかのごとく突然の大雨が振り出し、上野桜木の通りはまるで川の流れのようになりました。野外イベントは中止。そして雨宿りをかねたディスカッションタイムは、多くの意見が交わされ、大変有意義な時間となりました。
撮影 上山誉晃

あの夜から一週間以上日にちは過ぎたが、未だに色々考えている。谷中会議のこと。コミュニティのこと。そして何より廃墟のこと。Paulさんの最新作「Estadio Insular ─様々な痕跡を求めて」は、スペイン、カナリア諸島のとある島の市街地の中心部にある、閉鎖され廃墟と化したサッカースタジアムの内部を撮影したドキュメント。かつてそこに試合観戦の為に集まったであろう2万人余りの人々の替わりに、多くの植物が繁茂している。その昔スタジアムを取り囲む丘はそこに入りきれなかった人達が陣取って見物していたのだが、すでに丘は切り崩され廃墟を見下ろすように高層住宅が建っている。登場人物は存在しない。淡々としたナレーションが流れる中、様々な過去の痕跡を辿るように色々なアングルで撮影されたスタジアム内の映像が映し出される。無人の廃墟を徹底的に映し出すことで外部の都市の喧噪、人々の日々の生活の気配を逆説的に描き出そうとしているのか。耽美な美しい映像の数々。それにしても病的とすら感じられるほどのスタジアムに対する執拗な歩み寄り方に驚く。彼は不景気の中で未だに跡地利用が定まらず、廃墟として放置されているスタジアムを「社会的彫刻」と呼んでいる。もしかするとサッカースタジアムは、彼にとってギリシャ・ローマから続く歴史の中のコロシアムとしての文化・コミュニティの寓意かもしれない。http://vimeo.com/32509651 左記作品の予告編。


飯島洋一著「現代建築・アウシュビッツ以降」青土社刊2002年の中に「ナチスの廃墟 ウィーンの要塞建築」という短いが大変興味深い文章を見つけた。飯島氏はウィーン滞在中(1980年代)に第二次世界大戦中に、連合国側からの空爆から首都を防衛するために建造された巨大な砲撃塔とレーダー塔を訪れた。飯島氏は疑問を抱く。戦後多くの年月を経た現在、なぜナチス時代を想起させるような建造物をウィーンの人々は残しているのだろうか。氏はその理由を、例え忌まわしき過去を背負った建築であったとしても歴史として記憶にとどめようとする精神的態度の表れだと。そしてそのような考えに向かうのを氏は、自身が日本人であるからではないかと自問する。広島の原爆ドームを除いて廃墟が都市に残されておらず、阪神淡路大震災の記憶すら残っていない。(この点の記述に関しては私には異議があるので後述する)それに対して西欧ではローマのように廃墟が都市の日常の中にある。その違いではないかと。
しかしその要塞は別の理由で残されていたことが判明する。要塞は戦後幾度と無く解体が計画されていたが、壁厚が数フィートにもおよぶ堅牢さゆえに破壊不可能という結論に落ち着いたのだった。「壊さない」のではなく、「壊せない」。「破壊不可能性」ゆえに廃墟と化す要塞。それは本来的な廃墟の概念からすれば矛盾しているが、飯島氏はそこに西欧的な「重さ」「永遠性」を見いだす。建設時に「破壊不可能」なくらいに堅牢に作られたと言う点に「重さ」の歴史を。
一方日本の建築に対しては、逆に「壊せないこと」ではなく「壊れること」、いつでも「壊せること」という非永続性や反構築性が建築概念にあるのではないかと示唆する。スクラップ・アンド・ビルドを繰り返す都市。飯島氏の建築評論のスタイルは症候的なものの、読み取りを通じて建築の文化的・歴史的文脈に辿り着こうとする試みと思われる。その点においては大変興味深い。矛盾する廃墟概念も大いに思考を刺激してやまない。
この飯島氏の著作は9/11アメリカ同時多発テロ事件の影響下でまとめられた論考である。二度の世界大戦。アウシュビッツ。ホロコースト。人間の思考の歪さ。イスラエル。パレスチナ。近代化の中で得た物、失ったもの。様々な歴史的因子が、ハイジャックされたジェット旅客機に結実し、9/11に世界貿易センタービルに激突し多くの尊い人命と共に巨大な建築を崩壊させた。http://allxa.web.fc2.com/a-map/austria/augarten/augarten01.html左記ウィーンの要塞の紹介サイト。飯島洋一氏のサイトではありません。参考までに。

しかし、しかしである。この本の出版された9年後に私達は東日本大震災を経験した。復興にはほど遠い東北の現状。依然として処理が進まないガレキの山。そして福島第一原子力発電所については何も言葉が出ない。現在の日本の状況の中で、津波で流され破壊される街を目撃し、壊そうにも簡単には壊せない福島第一原子力発電所の存在を前にしてもなお日本における建築の非永続性、反構築性の概念を語るのは難しい。それは建築に内包されている問題を超えて倫理の問題と繋がっていく。

歴史の中にあることと、だだ今、現在で向かい合うことの違い。この違いは単なる線的な時間軸上の位置の差異ではない。

ある時期、廃墟ブームがあった

90年代初頭、当時千葉大助手の藤原惠洋氏(現九大大学院教授・建築史家・建築学者)が主催する勉強会、風水研究会で若手研究家が日本の廃墟を撮影した写真のスライドを上映した。その時スライドを見ていて妙な違和感を感じたのを覚えている。映し出される廃墟の映像の数々を美的対象として鑑賞すればよいのか、それとも社会的文脈で思考すればよいのか分からなかった。藤原氏が赤瀬川源平氏の言葉を引用してコメントしていたのを思い出す。(氏は路上観察学会員でもある)トマソン物件が美しすぎる、もう美しさはいい。(記憶違いでしたらすみません)そのコメントは若い世代が廃墟を徒に美的に鑑賞する事に対しての批判だったのかもしれない。
私と言えば廃墟にたいするそのようなロマン主義的な視座を持っていなかったので、空襲の焼け野原の東京は廃墟なのか?原爆ドームは廃墟なのか?と半分興奮して発表者にくってかかった。それに対して藤原氏が平然ともちろん廃墟だと返答してのを覚えている。

変な義憤に取り憑かれていたのだと思う。


そんな私であるがこの5、6年くらいだろうか。関東近辺の近代産業遺跡をフィールドワークしている。特に足尾銅山や日鉱鉱山、常磐炭鉱など。といってもそんなに高尚な事をしているのではない。とにかく現地に行って見てみようという事を繰り返してる。何度も訪れるたびに、段々土地に体がなじむ感じがしてくる。そしてただ目に見えて残っている建築・遺跡・廃墟だけではなくそこで労働に従事していた人々の生活の有様に興味が移ってい行った。とくに「友子制度」には大きな関心を持っている。「友子制度」とは江戸時代から昭和50年くらいまで存続していた鉱山・炭鉱労働者の結社のことである。近代的な労働組合と似ている点もあるがより密接な人間関係、親分子分のちぎりなど危険で劣悪な労働環境で仕事をしていた男達の心身ともに、大きなよりどころとなった組織である。友子の免状を得た職人は全国の鉱山・炭鉱で働くことが出来た。病気をした場合の支援、死んだ場合の遺族の面倒などもした。もちろんストライキも。面白いことに友子の起源は、関ヶ原の戦いで形勢不利であった徳川家康を鉱山で働く者たちが助けたことに由来すると友子の巻物には書いてある。話が廃墟からずれてきた。友子についてはさらに勉強してから改めて書いてみるつもりだ。

足尾銅山 渡抗夫・友子の墓

足尾銅山 小滝地区 共同浴場の跡

ウィーンの要塞に話をもどす。Facebookで要塞について記述してところ帰国したPaulさんからコメントがあった。彼は1985年くらいに建築設計事務所で働いていた。そのとき事務所の建築家が要塞のリノベーションを試みていたそうだ。要塞が直接的に過去の歴史と繋がっている状態を変えるために。しかし要塞の堅牢なつくりに計画は断念された。厚さがなんと7メートルもあるコンクリート製の壁を開口し窓をもうけたり、構造を改造することは技術的にも予算的にも困難であることが判明したのだそうだ。塔のうち一つは(全部で6カ所建造された。)戦後、鉄道の貨車にダイナマイトを充填し内部からの爆発を試みたが、屋根は吹き飛んだが、要塞の壁はしっかりと残ったらしい。
私も仕事柄コンクリートの壁にダイヤモンドコアドリルで開口部を作る事があるが、直径30cmの穴を1メートルの厚さを開けるのに半日以上、下手をすると一日かかる仕事量だというのを知っている。しかも7mの壁厚を切り取ることが可能なダイヤモンドカッターの機械を私は知らない。「破壊不可能性」、たしかに納得せざるをえない。Paulさんは要塞を公園の中の忘れられた戦士と例えている。

2012年9月27日木曜日

谷中会議


東京への手紙 | Letter to Tokyo from Paul Weihs on Vimeo.

今年の春、私は黒沢美香さんから一通のメールを受け取った。。そこには上記の動画へのリンクが張られていた。動画を観て驚く。なんと自分が仲間達と踊っているではないか。しかも若い頃の私。美香さんはニューヨークはザ・キッチンで踊るアメリカ・コンテンポラリーダンス界のゴット姉さんこと、サラ・ミチェルソンさんからこのメールを受け取った。サラさんもこの映像に映っている私達を探している人物からメールを受け取った。私と仲間達であることが分かったので、私に辿り着いた次第。発信元はオーストリアはウィーンにすむPaul Weihsさんが、2000年に日暮里谷中霊園内の五重塔跡公園での集団即興パフォーマンスの様子を撮影したもの。私達は1989年から2009年まで前述の公園内で毎週火曜日と金曜日に集団で即興パフォーマンスを実践していた。そしてそれを谷中会議と名付けていた。谷中会議にはダンサーのみならず、音楽家、美術家、写真家、詩人、建築家などなど様々なジャンルの表現者が集まり、即興を手段とし新しい表現の可能性を模索していた。延べにすると相当な人数になるのではないだろうか。先輩ダンサーの黒沢美香さんも然り、サラさんも来日したときは谷中に通ってくれた。しかもサラさんからは谷中会議は、日本のジャドソン・チャーチだなんて嬉しいコメントをもらったことも。そして12年前にサラさんと同じ千駄木のゲストハウスに宿泊していたPaulさんが、彼女から私達の活動を聞いて飛び込みで撮影したのがletter to tokyo/東京への手紙ということだ。私は撮影されたことなど、とっくに忘れてしまっていた。しかし事の次第の整理がつくと、私達は早速Paulさんと連絡を取り合いこの9月に再会することとなる。そして映像に映っている4人のメンバーの12年後の表現活動や実生活、仕事の様子などのドキュメントを撮影した。このプロジェクトの話を上野桜木で代々上野寛永寺の畳を請け負ってきた老舗畳屋さん、そして現在は内装工事、一般建築もてがけるクマイ商店(株)を経営されている熊井千代子さんに話したところ急遽、熊井さんが運営するK's Green GalleryでPaulさんの映像作品の上映会が実現することになった。上野桜木近辺は美術館やコンテンポラリーのギャラリーなどが点在すると東京を代表するアートスッポットの一つ。千代子さんも1997年から続く地域のアートイベント、Art-linkの実行委員会の重鎮。K's Green Galleryもイベントの情報センターとして賑わいます。そして今晩と土曜日には福島は檜枝岐村の農民歌舞伎をドキュメントした映画も上映されます。http://artlink.jp.org/2012/artist/09/03.html
 
さて私達の上映会ですが明日の4日、午後7時より開始します。
作品はletter to tokyo 東京への手紙と新作 Estadio Insular 様々な痕跡を求めて
の二作となります。新作はスペイン、カナリア諸島のとある島の閉鎖されたスタジアムが
荒廃していく様を中心に、コミュニティの過去を遡る作品です。
上映会の後質疑応答の時間を設けています。
その後会場を撤収し、谷中霊園内の五重塔跡公園に移動。何年かぶりに谷中会議を再開したいと思います。参加自由です。ルール等は現地で協議いたしましょう。よろしくお願いします。




http://vimeo.com/32509651
Estadio Insular のトレーラーです。雰囲気がいいです。


K's Green Galleryの所在地


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