2012年4月30日月曜日

オン・ザ・テーブル 霜田誠二パフォーマンス

4月28日 Steps Gallery(銀座)の霜田誠二展「米麹で」の最終日に行く。
画廊のブログhttp://stepsgallery.cocolog-nifty.com/ 
米麹でどんな作品を作ったのかという興味もあったが、とにかくわたしのお目当てはパフォーマンス作品の「オン・ザ・テーブル」である。何の変哲もない小さなそしてとてもチープなダイニングテーブルの上に全裸の霜田氏が乗り、微速でポーズを変化させていきながらなんとテーブルの裏面にしがみつき、床に一切触れずテーブルの廻りを一周するというもの。パフォーマンス遂行上のタスクはいたってシンプルなのだが、豊かで奥深い時間が出現する。観念を廃したまさしく裸形の肉。様々な表象を次々に産出させる微速によるディテールの豊穣。観客が行為のタスクを了解するやいなや、見る者は霜田氏の肉体に乗り移りタスクの遂行を共に行っている感覚に襲われる。まだまだ書きたいことがあるのだが、あの作品体験を記述できる言葉の力が私には足りない。これはオン・ザ・テーブルを始めて見たときから感じていることだ。いかに自分が観念的にしか肉体を見ていないか知らされる。同時に肉体表現の可能性を喚起させられるのも事実だ。1991年福島県の廃校・廃坑でおこなわれた田島パフォーマンスフェスティバルに参加した際に初めて私は、オン・ザ・テーブルを見みた。
フェスティバルに参加した友人達と作品を語り合ったことを思い出す。2回目はギリシャのアテネ。95年だったか。私は黒沢美香さんの欧州ツアーに参加しており、同じ劇場で上演したのだ。お互いの作品を酒をのみながら語り合ったのを覚えている。そして今回は三回目。そして私はオン・ザ・テーブルを初めて観ている感覚に襲われた。デジャヴの反対の感覚。しかし未知なる作品ではないのだ。絵画体験に似ているのか。同じ絵画を時間をへて再び経験する時の感じにている。観るたびに発見するという経験知の刷新ではない。そこに行為する肉体があるという事態への反復した参与の感覚。1回目、2回目、3回目といった序数的な参与ではなくある確からしさのもとに再帰する感じなのだ。そのような経験はパフォーマンスやダンス作品ではなかなか希なのである。
ちなみに今回霜田氏はテーブルと共に床に倒れ込んだ。再度チャレンジするもまたまた失敗した。霜田氏は動転する様子もなくテーブルの上に乗り静かに横たわり行為の余韻を官能する時間を経て終了。タスクの遂行は失敗したがパフォーマンスは成功した。パフォーマンスにとって何がその作品性を成立させているのか考えさせられた。再現可能性ではなく、ある質感をもった時空へのアクセス性とでも言えるかもしれない。日本のみならず世界中で何百回と繰り返しおこなわれているにも関わらず、常に一回目として反復する。
パフォーマンスのあと霜田氏の絵画を見直すと、霜田氏が観たであろう異国の風景を、霜田氏の目を通して自分も観ている気持ちがしてきた。パフォーマンス最中に微かに漂った発酵臭は玄米麹のものなのか霜田氏の体表から浮き出た汗の臭いなのか定かではない。