荒川区教育委員会の説明文
上尾久村の馬捨場跡(馬頭観音)
馬捨場の本来の位置および範囲は、東尾久七丁目三六一二番地、三四八四番地あたり(西方五十メートルのところ)と推定される。平成十二年、スーパー堤防の建設に伴って小祠や石像物がここに移設された。
かつて、荒川沿いのこのあたりは、秣場(まぐさば)と呼ばれていた。秣場とは、田畑への施肥である刈敷きや、牛馬の資料をする草の共有の採取地のことをいう。江戸時代後期には、新田開発されていくが、その呼称は地名として大正時代まで使われていた。
この秣場の中に、馬捨場があった。牛馬は、田畑を耕すため、荷物の運搬に欠かせない動物であり、特に馬は、軍事用、宿駅の維持のために重視された。しかし、年老いたり、死んだ際には、ここに持ち込まれ、解体されて、武具・太鼓などの皮革製品や、肥料・薬品などの製品として活用されることになっていた。こういった馬捨場は他の各村々にも存在し、生類憐み令では、解体後の丁重な埋葬が求められた。
明治時代になって、馬捨場は使命を終えるが、荷を運ぶ運送業者の信仰を集めたり、戦争で徴用された馬を供養する場ともなり、跡地は別の意味合いを帯びていくようになっていった。近年まで、馬の供養のための絵馬を奉納したり、生木で作ったY字型のイヌソトバを供える習俗が残っていたという。現在、天保十二年(1841)及び大正時代の馬頭観音のほか竹駒稲荷などが祀られ、また開発によって移された石塔類も置かれている。この内、寛永十五年(1638)十二月八日銘の庚申塔は荒川区最古のものである。
かつて日常であった人間と馬との深い関係が偲ばれる。そして今でも朝夕に祠の前で手を合わせている人が見受けられる。Google mapのストリートビューでこの場所を見たら、ちょうど祠の前に人がいた。拝んでいるのかは定かでは無いが、一応リンクは貼っておきます。
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上記の教育委員会の説明を読むだけでは、明治以前の農村風景をノスタルジックに想起し戦争に徴用された馬の記述に哀れみを感じたりするのだが、例えば馬捨場がある人々には生活の糧を得る、大きな利権の場であったことはなかなか想像しがたい。
死牛馬取得権という言葉がある。その権利が如何に富を生み出す物であったか。それについて書かれた喜田貞吉「牛捨場馬捨場」というテキストを青空文庫で見つけた。(1924年大正13年)被差別部落民と馬捨場の関係。大きな特権であった死牛馬取得権を、形ばかりの解放令(明治4年1871年)で失い生活が大変であったという。複雑で難しい問題なので私ごときが気軽にコメントできるものではないので、一度よんでもらいたい。以下青空文庫リンク。http://www.aozora.gr.jp/cards/001344/files/54853_50038.html
これまたネット上の情報なので情けないが、脱落地なる言葉を知った。明治6年1873年の地租改正により官有地と民有地を区別した際に分類から脱落した土地のこと。地図に番地がなく土地登記簿にも付されていない。現在では「馬入れ」「芝地」「石置」「根除掘」「畦畔」「稲干場」「死獣捨て場」などの表示はあるようだ。「死獣捨て場」は馬捨場のことだろう。江戸時代、村の共有地であった場所だった為に脱落したのであろう。
関東財務局の国有財産についてーよくある質問と回答ー Q12に脱落地とはなんですか?とある。平成の大地も一皮むけば江戸の大地が露呈する。しかもその大地は複雑な社会システムを表象している。以下関東財務局資料。http://kantou.mof.go.jp/content/000046443.pdf
ついでに。先の喜田貞吉のテキストの終わりの方に「稲場」という言葉が出てくる。喜田はそれを「稲場とは収穫後田面の落穂を拾う権利であるかと思われる。」と記している。これなぞはミレーの落ち穂拾いのテーマそのものだ。コモンズ=共有地
いろいろ連想が生まれるのだが、如何せん勉強不足。今回は「馬捨場」という気になる場所と出会ってしまったというメモ。