2013年9月20日金曜日

忘備録 馬捨場 江戸の大地 脱落地

荒川区西日暮里に住んでいる私のお気に入りのジョギングコースは、疎開道路をとおり、都電荒川線をこえて都立尾久の原公園を周回するコースだ。時間と体力に余裕があるときは隅田川にそって走る。川沿いの開けた空間が心地よい。尾久の原公園と隅田川との間にちょっとした緑地帯がある。その一角に「馬捨場跡」がある。小さな祠や石仏などが祀れているのだが、荒川区教育委員会による「馬捨場跡」に関する説明が非常に興味深いのでここに全文を書き写しておく。(ちなみに千住大橋までの隅田川はかつては荒川と呼ばれていた。)






荒川区教育委員会の説明文

上尾久村の馬捨場跡(馬頭観音)
馬捨場の本来の位置および範囲は、東尾久七丁目三六一二番地、三四八四番地あたり(西方五十メートルのところ)と推定される。平成十二年、スーパー堤防の建設に伴って小祠や石像物がここに移設された。
かつて、荒川沿いのこのあたりは、秣場(まぐさば)と呼ばれていた。秣場とは、田畑への施肥である刈敷きや、牛馬の資料をする草の共有の採取地のことをいう。江戸時代後期には、新田開発されていくが、その呼称は地名として大正時代まで使われていた。
この秣場の中に、馬捨場があった。牛馬は、田畑を耕すため、荷物の運搬に欠かせない動物であり、特に馬は、軍事用、宿駅の維持のために重視された。しかし、年老いたり、死んだ際には、ここに持ち込まれ、解体されて、武具・太鼓などの皮革製品や、肥料・薬品などの製品として活用されることになっていた。こういった馬捨場は他の各村々にも存在し、生類憐み令では、解体後の丁重な埋葬が求められた。
明治時代になって、馬捨場は使命を終えるが、荷を運ぶ運送業者の信仰を集めたり、戦争で徴用された馬を供養する場ともなり、跡地は別の意味合いを帯びていくようになっていった。近年まで、馬の供養のための絵馬を奉納したり、生木で作ったY字型のイヌソトバを供える習俗が残っていたという。現在、天保十二年(1841)及び大正時代の馬頭観音のほか竹駒稲荷などが祀られ、また開発によって移された石塔類も置かれている。この内、寛永十五年(1638)十二月八日銘の庚申塔は荒川区最古のものである。

かつて日常であった人間と馬との深い関係が偲ばれる。そして今でも朝夕に祠の前で手を合わせている人が見受けられる。Google mapのストリートビューでこの場所を見たら、ちょうど祠の前に人がいた。拝んでいるのかは定かでは無いが、一応リンクは貼っておきます。



大きな地図で見る


上記の教育委員会の説明を読むだけでは、明治以前の農村風景をノスタルジックに想起し戦争に徴用された馬の記述に哀れみを感じたりするのだが、例えば馬捨場がある人々には生活の糧を得る、大きな利権の場であったことはなかなか想像しがたい。
死牛馬取得権という言葉がある。その権利が如何に富を生み出す物であったか。それについて書かれた喜田貞吉「牛捨場馬捨場」というテキストを青空文庫で見つけた。(1924年大正13年)被差別部落民と馬捨場の関係。大きな特権であった死牛馬取得権を、形ばかりの解放令(明治4年1871年)で失い生活が大変であったという。複雑で難しい問題なので私ごときが気軽にコメントできるものではないので、一度よんでもらいたい。以下青空文庫リンク。http://www.aozora.gr.jp/cards/001344/files/54853_50038.html

これまたネット上の情報なので情けないが、脱落地なる言葉を知った。明治6年1873年の地租改正により官有地と民有地を区別した際に分類から脱落した土地のこと。地図に番地がなく土地登記簿にも付されていない。現在では「馬入れ」「芝地」「石置」「根除掘」「畦畔」「稲干場」「死獣捨て場」などの表示はあるようだ。「死獣捨て場」は馬捨場のことだろう。江戸時代、村の共有地であった場所だった為に脱落したのであろう。

関東財務局の国有財産についてーよくある質問と回答ー Q12に脱落地とはなんですか?とある。平成の大地も一皮むけば江戸の大地が露呈する。しかもその大地は複雑な社会システムを表象している。以下関東財務局資料。http://kantou.mof.go.jp/content/000046443.pdf

ついでに。先の喜田貞吉のテキストの終わりの方に「稲場」という言葉が出てくる。喜田はそれを「稲場とは収穫後田面の落穂を拾う権利であるかと思われる。」と記している。これなぞはミレーの落ち穂拾いのテーマそのものだ。コモンズ=共有地

いろいろ連想が生まれるのだが、如何せん勉強不足。今回は「馬捨場」という気になる場所と出会ってしまったというメモ。


2013年9月10日火曜日

Ashio Projectの為のノート1 「都市の無意識」と労働身体および精神的同胞性について

7月の中旬から8月の前半にかけて、私は知り合いのダイヤモンドボーリング屋さんの応援で、川崎市生田緑地の近くにある長沢浄水場に仕事に入った。長沢浄水場といえば聖橋や武道館を設計した山田守の作品ではないか。http://ja.wikipedia.org/wiki/長沢浄水場  
長沢浄水場!憧れの建築の中で仕事ができるぞとワクワクして現場に向かったのだが、私の現場は同じ長沢浄水場でも川崎市水道局のもので違う敷地であった。山田守の方は東京都水道局で、川崎市の施設に隣接していた。残念。昼休みに隣の敷地から背面をiPhoneで撮影。

さらに現場から帰るハイエースの助手席からもう一枚。
上手くとれなかったが、ラッパというか、キノコというか柱の形がすてきだ。守衛室も同じ柱。ウルトラマンやゴレンジャーのロケも行われたこともある施設。有る世代の男性にはたまらない建築ではないだろうか。

さて肝心な仕事であるが、浄水槽にポンプ等の設備を取り付けるための下準備としてコンクリートの躯体をコンクリートカッターで切りつけ、ブレーカーで鉄筋をハツリ出す作業であった。折も折、記録的な猛暑の時期と重なり過酷な仕事となった。コンクリートを破砕するので防塵マスクは欠かせない。足場を上り下りするだけで息が上がる。一人一台にあてがわれた送風機の風を浴び、水分をこまめに補給しながら熱中症にならずに現場を終えた。休み時間ごとに作業服を取り替え、毎晩帰宅するとコインランドリーに直行する日々。とにかく暑い日々だった。

そんな仕事をやっている最中に東京国立近代美術館の企画展、「都市の無意識」の最終日に滑り込む。http://www.momat.go.jp/Honkan/unconsciousness_of_the_city/#outline
私のTwitterのタイムライン上でそこで上映されている「東京もぐら作戦」なる映画が話題になっていたからだ。製作/岩波映画製作所、企画/東京都下水道局、監督/広川朝次郎
1966年作成。急速に巨大化していく東京。そこで暮らし働く人々を支えるインフラ。電気、水道、ガス、そして下水道。地上の過密さに呼応するかのごとく過密な東京の地下の実体があきらかにされる。そして下水道工事は、インフラ整備の一連の流れの中で殿を勤めざるを得ない。他の管工事には無い特有の課題もある。配管の大きさ、勾配の必要性など。厳しい条件の中で様々な技術を駆使し下水道網を東京の地下に張り巡らしていく様が撮影されている。配管の敷設はもとより、ポンプ場と呼ぶ、一旦地下の深部に貯まった下水をポンプを使い揚水し、処理場へ送り込む施設。集まった下水から汚物を濾過し川に放流する下水処理場など、巨大施設や巨大地下空間が斬新なカメラワークによって映し出される。BGMも現代音楽だったりで時代を彷彿とさせる。地下空間で動く重機や掘削機を見ながら怪獣映画を思い出したのは、昭和の男の子の郷愁とロマンでご愛敬。普通の市民生活をおくっている人には、なかなか目にすることのできない異空間であったのではないだろうか。いい映画だった。

そしてなにより、水道インフラ施設での工事に従事している時に、この映画をみたことが私個人としては何かの符牒のようで興奮した。実際、下水処理場もポンプ場でも作業の経験はある。ある時などはライフジャッケトを着て作業をした。ゲリラ豪雨で下水の流量が増えた時の安全策だ。実際に大雨が降ってきて警報が鳴り、直ちに道具を置きっぱなしにして沈砂槽からハシゴを登って退出したら、またたくまに深くて真っ黒な汚水の急流が目の前に出現したこともある。

だから映画の中の作業が、人ごとには思えなかった。映画の中で働く作業員に親近感を感じた。

そして映画だけではない。「都市の無意識」会場で配布されていたパンフレットのテキストが興味深い。企画は3つのテーマに分かれている。

地下空間としての「アンダーグラウンド」 
都市の上層の景観としての「スカイライン」 
都市の表層の中に潜む多層性という意味の「パランプセスト」

かつて地下は死の世界、冥府として表象されてきた。科学によってそのイメージは変化していく。18世紀におこった産業革命により地下世界は冥府から、富を生み出す資源の宝庫へと転換を遂げる。石炭、鉄、銅などなど。

ルイス・マンフォードは大著『文明と技術』の中で、近代都市のインフラを支える技術のほとんどが鉱山業、すなわち「地下」に由来すると指摘しています。「鉱山から蒸気ポンプが生まれ、やがて蒸気機関が現われ、最後に蒸気機関車が生まれ、さらにその派生物をして蒸気船ができた。エスカレーターやエレベーターは鉱山から生まれ、それらは綿紡績の工場ではじめて応用されたが、坑道が都市の交通に応用されて地下鉄になった。同様に鉄道も鉱山から直接に由来したもの」なのだ、と。
こうして意外なことに都市と鉱山業が結びつきます。地下鉄、上下水道、電気、ガス、通信などのインフラが大都市の地下に張り巡らされている事実に普段意識を向けることはありませんが、まさに鉱山業で培われた技術が姿を変えて、都市の動脈や静脈と呼ぶべき下部構造を構成しているのです。地中に挑んだ鉱山業の遠い日の記憶と通じる都市の基底には、暗闇の中で苛酷な労働に従事した抗夫たちの呻吟さえもが浸み込んでいるはずです。あるいはまた、現代の都市風景を特徴づける建物の高層化を可能にしたエレヴェーターが、坑内への下降という本来の機能を反転させたものだと考えれば、都市の地上と地下は実は鏡像のような関係にあるといえるかもしれません。
(都市の無意識 パンフレット2頁より引用)

テキストのこの個所には大いに納得させられた。「東京もぐら作戦」の中で、残土を搬出するためにベルトコンベアーを使っていた。元々は鉱山や炭鉱で掘り出した資源を地上に搬出するための機構なのだ。それが下水道工事で転用されている以上にエスカレーターをなって普通に都市生活の中に組み込まれている。

私が長沢浄水場の現場で使用したコンプレッサーのブレイカーなども鉱山開発から生まれた物なのだろう。しかも基本的構造は全く同じだ。

この写真は日鉱鉱山記念館の展示。日立鉱山で銅の採掘に使われていたブレーカー類。大規模資本の鉱山ではそこで使用する機械類も自社で製作していた。日立鉱山から日立製作所が生まれる。

ここで前述した符牒がわかりはじめた。この数年とりくんでいる鉱山や炭鉱のフィールドワーク。そしてそこから生まれた足尾銅山、渡良瀬遊水地旧谷中村、古河庭園の三つの場所をつなぐイベント「Ashio Project」を計画実行しようとしているのも、単なる歴史趣味や廃墟に対するロマン主義では毛頭無く、田中正造をフクシマ以降の国の原子力行政を批判する為に担ぎ出そうという魂胆でもない。自分が、地の底の劣悪な環境の中で労働していた鉱山および炭鉱の抗夫達に、その労働身体の末裔としての土木建築業を生業としている私の労働身体が精神的同胞性を感じ取っていたのだということを。そして彼等の命がけの労働が、一方で鉱毒汚染を引き起こし、谷中村を消滅させ棄民を生み出したことについて、その同胞性は倫理的困惑を引き起こすのだ。「Ashio Project」は自分の労働身体を検証、批判することでもあったのだ。