2013年12月3日火曜日

「目まいをする準備」終了しました!!

萩原富士夫×さそうすなお Oval Dance series vol.1 「目まいをする準備」ダンス公演無事終了しました。立ち会ってくださった皆様、ありがとうございました。危なっかしい二人を支えてくれたスタッフの皆さん、お疲れ様でした。そして二人の素っ頓狂な企てを厳しくも、慈愛あふれる眼差しで見守ってくれたStudioGOOの吉福さん、長谷川さんに心から感謝します。

上演中の躁状態から徐々に、カラダと感情が解かれていく公演後の時間が好きです。高熱を発した病気からの快癒期のようなけだるさと、過ぎ去ったあの濃厚な時間に焦がれる恋愛感情にも似た、そわそわと浮き足立った気分が入り交じった状態。その中で言葉を探り、体験を整理し反省しようとするのだが、たった3回の公演ですら言葉では辿れない深さと豊かさを私にもたらしたのだなと実感している。

初日に黒沢美香さんが観に来てくれた。
「何故ダンスは、かくもかそけきささやかなものを表現しようとするのだろう。」と終演後の雑談での彼女の言葉が心に残る。

演劇や映画にはない「弱さ」が、ダンスの魅力の一つなのかもしれない。身体の有限性を隠すことも騙すことも、ましてや反復できないダンスという方法がもつ本質的な脆弱性。
それは人生の一回性、時間の不可逆性をもとにした、時の流れの中に起こる偶然による未知なるものとの遭遇の肯定を言いたいのではない。同じことは二度と起こらない。然り!
しかしまた生々流転、諸行無常を肯定しているのなら何故、作品という船で上演という形式をもちい時の流れに漕ぎ出すのか。偶然も必然も過去を振り返ればの事なので、船の切っ先にはないのだ。そんな奮い立つ気概に寄り添う様にしてある「弱さ」。

今回のダンス作品「目まいをする準備」の種あかし。
事の起こりは、私が武田泰淳の晩年の作品「目まいのする散歩」に出会ったこと。

『六月の午前七時、久しぶりの好天気に誘われて、山小屋を出る。医師に禁じられた酒をのむと、ついふらふらと無理がしたくなる。外出する必要は全くないのに、庭の坂を登りつめて、門の外へ出た。多少の努力感はあったが、警戒していためまいの現象は起こらない。』目まいのする散歩の冒頭部分。

武田泰淳ははっきり申し上げて今の今まで読んだことがありませんでした。私の友人には、萩原には泰淳が似合うという人もいましたが、似合うと言われると自分を見透かされているようでよけいに読みたくなくなるもので、その発言を聴いてから20年間手にとる事などなかったのに、ふと立ち寄った小さな書店で散歩文学の特集書棚が設けられていて何気なく手に取ると、冒頭の文章、医師に禁じられた酒・・・以降の文にはっと自分の未来が書かれているような気がして、思わず買って一気に読んでしまった。友人はやはり私の本性を見抜いていたのだった。

脳梗塞かなんかで倒れた泰淳がふらふらとよろめきながらあちらこちら散歩する。しかし闘病記などでは決してない。散歩にかこつけてなんでも書いていく。東京大震災や中国大陸での戦争の体験、ソビエト連邦への船の旅、飛行機の旅も散歩にしてしまう。しかも目まいのする身体のドライブ感が心地よい。そして何より私の興味を引いたのが、その文章を泰淳の妻である武田百合子が泰淳の言葉を口述筆記で書いているのだ。そしてそれについて隠すのでもなくしっかり言及しており、時折これは百合子の文章がオリジナルなのではと思わせるところが幾つかあるのだ。多層的な言語空間。豊かな身体性。ユーモア。ニヒリズムを超えた清々しい恍惚感。ノックアウトされてしまった。なんとか作品にできないかと思った。


黒沢美香さんのある作品に参加し、その中で人時計というチームをさそうすなおさんと組むことになった。その稽古の合間に、「目まいのする散歩」の話しを彼女にふった。さそうさんは武田百合子の熱心な愛読者だった。

ということで「目まい」のダンスは始まった。

まずはテキストの読解。そしてテキストのrepresentation=再現前化=表象=上演ではなく、
テキストを二人の関係に取り込み、ダンスを発動させる「問い」の装置として機能させる事を企ての肝にすえた。

往復書簡。野外での稽古をへて一年かけてスタジオワークへ移行した。
わざと遠回りして、試みの中で迷子になろうとするくらい「目まいのする散歩」をしたと今は思う。例えば以下の動画を観ていただきたい。
隅田川の川岸をバルーンを持ちながら散歩した。ルールがある。川下、河口を目指し二人は右岸左岸に分かれた歩く。橋のたもとに到着したら橋を向こう岸に渡り、各々の歩く川岸を交換する。これをダンスとは呼ぶ必要はないが、一つの風景を別の角度から見る事や、対岸の見えない相方の歩行をイメージすることが重要な稽古だと思った。

「川という漢字を見ていると三つ編みにしたくなる。」byさそうすなお
この稽古は川を編む、川編み Kawa-ami と名付けた。
動画撮影 矢尾伸也 




過去を振り返るのはこのくらいで。今回の公演の写真を何枚かアップして今回のブログはひとまず終わり。最後に他者と共同作業することの素晴らしさを教えてくれた、さそうすなおさんに感謝したい。自分の問いかけが、他者の身体、思考、想いを通じてさらなる大きな問いとなって戻ってくる事への驚きと、その問いに対する責任を感じます。
responsibility/ response+ability  責任とは問いに応答する能力なのではないだろうか。
そしてその問いは、私達に先行して存在した、存在するあまたの存在者から引き継がれているのかもしれない。例えば泰淳の文章から私達が問いを見つけた様に。

                  
                    

                                           
                
撮影 矢尾伸也さん 今回また照明の合間に。ありがとうございます。