2012年10月13日土曜日

雑記 廃墟についてあれこれ

10月4日上野桜木K's Green GalleryでおこなったPaul Weihs氏の映像作品上演会には、多くの方々に足を運んで頂き誠にありがとうございました。そして私どもの急な申し入れを快諾し会場を貸してくださった熊井千代子様、改めて感謝申し上げます。上映会後は質疑応答の時間を経て谷中の五重塔跡公園にて集団即興セッション「谷中会議」を一晩だけ復活させる予定でしたが、「Letter to Tokyo─東京への手紙」を上映している最中に、作品中の降雨に呼応するかのごとく突然の大雨が振り出し、上野桜木の通りはまるで川の流れのようになりました。野外イベントは中止。そして雨宿りをかねたディスカッションタイムは、多くの意見が交わされ、大変有意義な時間となりました。
撮影 上山誉晃

あの夜から一週間以上日にちは過ぎたが、未だに色々考えている。谷中会議のこと。コミュニティのこと。そして何より廃墟のこと。Paulさんの最新作「Estadio Insular ─様々な痕跡を求めて」は、スペイン、カナリア諸島のとある島の市街地の中心部にある、閉鎖され廃墟と化したサッカースタジアムの内部を撮影したドキュメント。かつてそこに試合観戦の為に集まったであろう2万人余りの人々の替わりに、多くの植物が繁茂している。その昔スタジアムを取り囲む丘はそこに入りきれなかった人達が陣取って見物していたのだが、すでに丘は切り崩され廃墟を見下ろすように高層住宅が建っている。登場人物は存在しない。淡々としたナレーションが流れる中、様々な過去の痕跡を辿るように色々なアングルで撮影されたスタジアム内の映像が映し出される。無人の廃墟を徹底的に映し出すことで外部の都市の喧噪、人々の日々の生活の気配を逆説的に描き出そうとしているのか。耽美な美しい映像の数々。それにしても病的とすら感じられるほどのスタジアムに対する執拗な歩み寄り方に驚く。彼は不景気の中で未だに跡地利用が定まらず、廃墟として放置されているスタジアムを「社会的彫刻」と呼んでいる。もしかするとサッカースタジアムは、彼にとってギリシャ・ローマから続く歴史の中のコロシアムとしての文化・コミュニティの寓意かもしれない。http://vimeo.com/32509651 左記作品の予告編。


飯島洋一著「現代建築・アウシュビッツ以降」青土社刊2002年の中に「ナチスの廃墟 ウィーンの要塞建築」という短いが大変興味深い文章を見つけた。飯島氏はウィーン滞在中(1980年代)に第二次世界大戦中に、連合国側からの空爆から首都を防衛するために建造された巨大な砲撃塔とレーダー塔を訪れた。飯島氏は疑問を抱く。戦後多くの年月を経た現在、なぜナチス時代を想起させるような建造物をウィーンの人々は残しているのだろうか。氏はその理由を、例え忌まわしき過去を背負った建築であったとしても歴史として記憶にとどめようとする精神的態度の表れだと。そしてそのような考えに向かうのを氏は、自身が日本人であるからではないかと自問する。広島の原爆ドームを除いて廃墟が都市に残されておらず、阪神淡路大震災の記憶すら残っていない。(この点の記述に関しては私には異議があるので後述する)それに対して西欧ではローマのように廃墟が都市の日常の中にある。その違いではないかと。
しかしその要塞は別の理由で残されていたことが判明する。要塞は戦後幾度と無く解体が計画されていたが、壁厚が数フィートにもおよぶ堅牢さゆえに破壊不可能という結論に落ち着いたのだった。「壊さない」のではなく、「壊せない」。「破壊不可能性」ゆえに廃墟と化す要塞。それは本来的な廃墟の概念からすれば矛盾しているが、飯島氏はそこに西欧的な「重さ」「永遠性」を見いだす。建設時に「破壊不可能」なくらいに堅牢に作られたと言う点に「重さ」の歴史を。
一方日本の建築に対しては、逆に「壊せないこと」ではなく「壊れること」、いつでも「壊せること」という非永続性や反構築性が建築概念にあるのではないかと示唆する。スクラップ・アンド・ビルドを繰り返す都市。飯島氏の建築評論のスタイルは症候的なものの、読み取りを通じて建築の文化的・歴史的文脈に辿り着こうとする試みと思われる。その点においては大変興味深い。矛盾する廃墟概念も大いに思考を刺激してやまない。
この飯島氏の著作は9/11アメリカ同時多発テロ事件の影響下でまとめられた論考である。二度の世界大戦。アウシュビッツ。ホロコースト。人間の思考の歪さ。イスラエル。パレスチナ。近代化の中で得た物、失ったもの。様々な歴史的因子が、ハイジャックされたジェット旅客機に結実し、9/11に世界貿易センタービルに激突し多くの尊い人命と共に巨大な建築を崩壊させた。http://allxa.web.fc2.com/a-map/austria/augarten/augarten01.html左記ウィーンの要塞の紹介サイト。飯島洋一氏のサイトではありません。参考までに。

しかし、しかしである。この本の出版された9年後に私達は東日本大震災を経験した。復興にはほど遠い東北の現状。依然として処理が進まないガレキの山。そして福島第一原子力発電所については何も言葉が出ない。現在の日本の状況の中で、津波で流され破壊される街を目撃し、壊そうにも簡単には壊せない福島第一原子力発電所の存在を前にしてもなお日本における建築の非永続性、反構築性の概念を語るのは難しい。それは建築に内包されている問題を超えて倫理の問題と繋がっていく。

歴史の中にあることと、だだ今、現在で向かい合うことの違い。この違いは単なる線的な時間軸上の位置の差異ではない。

ある時期、廃墟ブームがあった

90年代初頭、当時千葉大助手の藤原惠洋氏(現九大大学院教授・建築史家・建築学者)が主催する勉強会、風水研究会で若手研究家が日本の廃墟を撮影した写真のスライドを上映した。その時スライドを見ていて妙な違和感を感じたのを覚えている。映し出される廃墟の映像の数々を美的対象として鑑賞すればよいのか、それとも社会的文脈で思考すればよいのか分からなかった。藤原氏が赤瀬川源平氏の言葉を引用してコメントしていたのを思い出す。(氏は路上観察学会員でもある)トマソン物件が美しすぎる、もう美しさはいい。(記憶違いでしたらすみません)そのコメントは若い世代が廃墟を徒に美的に鑑賞する事に対しての批判だったのかもしれない。
私と言えば廃墟にたいするそのようなロマン主義的な視座を持っていなかったので、空襲の焼け野原の東京は廃墟なのか?原爆ドームは廃墟なのか?と半分興奮して発表者にくってかかった。それに対して藤原氏が平然ともちろん廃墟だと返答してのを覚えている。

変な義憤に取り憑かれていたのだと思う。


そんな私であるがこの5、6年くらいだろうか。関東近辺の近代産業遺跡をフィールドワークしている。特に足尾銅山や日鉱鉱山、常磐炭鉱など。といってもそんなに高尚な事をしているのではない。とにかく現地に行って見てみようという事を繰り返してる。何度も訪れるたびに、段々土地に体がなじむ感じがしてくる。そしてただ目に見えて残っている建築・遺跡・廃墟だけではなくそこで労働に従事していた人々の生活の有様に興味が移ってい行った。とくに「友子制度」には大きな関心を持っている。「友子制度」とは江戸時代から昭和50年くらいまで存続していた鉱山・炭鉱労働者の結社のことである。近代的な労働組合と似ている点もあるがより密接な人間関係、親分子分のちぎりなど危険で劣悪な労働環境で仕事をしていた男達の心身ともに、大きなよりどころとなった組織である。友子の免状を得た職人は全国の鉱山・炭鉱で働くことが出来た。病気をした場合の支援、死んだ場合の遺族の面倒などもした。もちろんストライキも。面白いことに友子の起源は、関ヶ原の戦いで形勢不利であった徳川家康を鉱山で働く者たちが助けたことに由来すると友子の巻物には書いてある。話が廃墟からずれてきた。友子についてはさらに勉強してから改めて書いてみるつもりだ。

足尾銅山 渡抗夫・友子の墓

足尾銅山 小滝地区 共同浴場の跡

ウィーンの要塞に話をもどす。Facebookで要塞について記述してところ帰国したPaulさんからコメントがあった。彼は1985年くらいに建築設計事務所で働いていた。そのとき事務所の建築家が要塞のリノベーションを試みていたそうだ。要塞が直接的に過去の歴史と繋がっている状態を変えるために。しかし要塞の堅牢なつくりに計画は断念された。厚さがなんと7メートルもあるコンクリート製の壁を開口し窓をもうけたり、構造を改造することは技術的にも予算的にも困難であることが判明したのだそうだ。塔のうち一つは(全部で6カ所建造された。)戦後、鉄道の貨車にダイナマイトを充填し内部からの爆発を試みたが、屋根は吹き飛んだが、要塞の壁はしっかりと残ったらしい。
私も仕事柄コンクリートの壁にダイヤモンドコアドリルで開口部を作る事があるが、直径30cmの穴を1メートルの厚さを開けるのに半日以上、下手をすると一日かかる仕事量だというのを知っている。しかも7mの壁厚を切り取ることが可能なダイヤモンドカッターの機械を私は知らない。「破壊不可能性」、たしかに納得せざるをえない。Paulさんは要塞を公園の中の忘れられた戦士と例えている。

2012年9月27日木曜日

谷中会議


東京への手紙 | Letter to Tokyo from Paul Weihs on Vimeo.

今年の春、私は黒沢美香さんから一通のメールを受け取った。。そこには上記の動画へのリンクが張られていた。動画を観て驚く。なんと自分が仲間達と踊っているではないか。しかも若い頃の私。美香さんはニューヨークはザ・キッチンで踊るアメリカ・コンテンポラリーダンス界のゴット姉さんこと、サラ・ミチェルソンさんからこのメールを受け取った。サラさんもこの映像に映っている私達を探している人物からメールを受け取った。私と仲間達であることが分かったので、私に辿り着いた次第。発信元はオーストリアはウィーンにすむPaul Weihsさんが、2000年に日暮里谷中霊園内の五重塔跡公園での集団即興パフォーマンスの様子を撮影したもの。私達は1989年から2009年まで前述の公園内で毎週火曜日と金曜日に集団で即興パフォーマンスを実践していた。そしてそれを谷中会議と名付けていた。谷中会議にはダンサーのみならず、音楽家、美術家、写真家、詩人、建築家などなど様々なジャンルの表現者が集まり、即興を手段とし新しい表現の可能性を模索していた。延べにすると相当な人数になるのではないだろうか。先輩ダンサーの黒沢美香さんも然り、サラさんも来日したときは谷中に通ってくれた。しかもサラさんからは谷中会議は、日本のジャドソン・チャーチだなんて嬉しいコメントをもらったことも。そして12年前にサラさんと同じ千駄木のゲストハウスに宿泊していたPaulさんが、彼女から私達の活動を聞いて飛び込みで撮影したのがletter to tokyo/東京への手紙ということだ。私は撮影されたことなど、とっくに忘れてしまっていた。しかし事の次第の整理がつくと、私達は早速Paulさんと連絡を取り合いこの9月に再会することとなる。そして映像に映っている4人のメンバーの12年後の表現活動や実生活、仕事の様子などのドキュメントを撮影した。このプロジェクトの話を上野桜木で代々上野寛永寺の畳を請け負ってきた老舗畳屋さん、そして現在は内装工事、一般建築もてがけるクマイ商店(株)を経営されている熊井千代子さんに話したところ急遽、熊井さんが運営するK's Green GalleryでPaulさんの映像作品の上映会が実現することになった。上野桜木近辺は美術館やコンテンポラリーのギャラリーなどが点在すると東京を代表するアートスッポットの一つ。千代子さんも1997年から続く地域のアートイベント、Art-linkの実行委員会の重鎮。K's Green Galleryもイベントの情報センターとして賑わいます。そして今晩と土曜日には福島は檜枝岐村の農民歌舞伎をドキュメントした映画も上映されます。http://artlink.jp.org/2012/artist/09/03.html
 
さて私達の上映会ですが明日の4日、午後7時より開始します。
作品はletter to tokyo 東京への手紙と新作 Estadio Insular 様々な痕跡を求めて
の二作となります。新作はスペイン、カナリア諸島のとある島の閉鎖されたスタジアムが
荒廃していく様を中心に、コミュニティの過去を遡る作品です。
上映会の後質疑応答の時間を設けています。
その後会場を撤収し、谷中霊園内の五重塔跡公園に移動。何年かぶりに谷中会議を再開したいと思います。参加自由です。ルール等は現地で協議いたしましょう。よろしくお願いします。




http://vimeo.com/32509651
Estadio Insular のトレーラーです。雰囲気がいいです。


K's Green Galleryの所在地


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2012年9月25日火曜日

萩原富士夫ソロダンス2012 「せぬひま──脚注、引用、余白」

今週末の土曜日曜に6年ぶりにソロダンスを上演いたします。

萩原富士夫 ソロダンス☆2012
せぬひま───脚注、引用、余白
9月29日 土曜日 19時スタート
9月30日 日曜日 17時スタート
両日とも開場は30分前
チケット代1,000円
場所・Studio GOO
世田谷区粕谷4−17−19
TEL03-3326-4945

今回は幾つかのモノたちとダンスします。








尾久の原公園にて稽古中 写真矢尾伸哉氏
同じく尾久の原公園にて


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2012年8月15日水曜日

「クラウド・シティ」トマス・サラセーノ展を見て

銀座のメゾンエルメス8階フォーラムで、「クラウド・シティ」トマス・サラセーノ展を見てきた。http://www.art-it.asia/u/maisonhermes/FOYzTJadHwNI2LZMuWrb
トマス・サラセーノはアルゼンチン生まれで現在ドイツ在住のアーティスト・アーキテクト?私には初見の作家。空中浮遊都市の展示と知り、これはトンデモ建築に出会えるかと思い行ってきた。会場には大小様々な大きさの木製多面体が、単体もしくは複数連結したものがワイヤーで空中に固定されてた。どうやらそれら多面体の連なりが空中浮遊都市のイメージのようだ。では一体それらの物体はどのような機構で浮くのかと考えてしまう。多面体の内部は泡のように空洞で外観のイメージしか伝わらない。アート作品だからそれでいいのか。ちょっと不満。いやちょっとどころじゃない。大いに不満を感じた。機能と構造とデザインが一致しないじゃないか。いや、空中浮遊は技術的には不可能に近いんだからアート寄りのアンビルトの展示と思えば納得できるかなと消化不良の感覚を覚えながら会場をうろうろしたらまだ他にも展示物があった。巨大な黒いビニールの気球のようなもの(むかしゴミ袋に使っていた黒いビニール袋の巨大なやつ)が、床から天井まで膨らんでプルプルと震えて横たわっている。600φの鋼製リングの開口部一カ所有り、その脇には扇風機が一台内部に空気を送っていた。せこい空調だなと思いながらもバルーンの中に靴を脱いで入る。内部は広く、モニターが設置してありサラセーノの作品を紹介する映像が映し出されていた。扇風機一台で空調している割には暑くないなと思いながら映像をみていると、一体このバルーンはなぜ膨らんでいるのかという疑問が生まれた。あわてて外に出てバルーンを支持している構造物や引っ張っているワイヤーなどが無いのを確認してから、そばに立っていた案内の女性の方にバルーンの機構を質問した。なんと答えは扇風機一つで膨らませているとのこと。これは面白い。これは確認していないが黒色ビニールシートを使用しているのは太陽光によって空気を暖めるためだろう。レンゾ・ピアノ設計のメゾンエルメスの建物、全体がガラスブロックで覆われているから太陽エネルギーは使い放題。木製多面体作品はイメージ先行の夢想的な展示に思えたが、黒色バルーンは機能と構造が一致している。デザインに関しては墜落した気球のようで、無様な印象を受けなくもないが手仕事感が溢れていて個人的には好感が持てる。そして作品の脇のベンチに置かれていた空中浮遊のための指南書を読むと、黒色バルーンを使い太陽熱だけで浮く実験を成功させているではないか。ビニールシートのカッティングから貼り合わせの手順まで詳しく説明しているその資料にエンジニアリング魂を大いに刺激された。

空中浮遊による重力の原理にとらわれない自由な空間の創出、そこでの人々の出会いと生活。国家の枠をこえたエコロジカルな発想および技術を利用した新しいパブリック空間の設計。それらのコンセプトをアンビルトなイメージとして展示するのではなく、それを実現するために様々なアイデアのプロジェクトを実践することでユートピアを描き出す。などと書いてはみるものの、私には「クラウド・シティ」は全体的に楽観主義者のユートピアの夢想に感じられた。

技術系アンビルドの系譜はバックミンスター・フラーを思い出してしまう。技術的には可能であるが、現実に技術面の問題が解決した際に、人間が果たしてその空間で新しい生活スタイルを手に入れることが可能なのかが疑わしいのだ。フラードームは富士山の気象測候所などで使われているが、地球全体で見れば軍事施設での利用が一番多いのではないだろうか。FRPのユニットバスもそうだ。仮設の風呂・トイレを安く早く設営するためのプランが日本の住宅市場に取り込まれた瞬間に貧相な住文化になりさがる。生活が向上するためには技術的な問題を解決するだけではなく、社会学、政治学、経済学等の人文科学系の知見を取り入れることが必要に思われるのだ。
技術系アンビルドは何も高度なテクノロジーだけが問題ではないのだ。例えば「O円ハウス」で有名な坂口恭平氏のモバイルハウス。完全な0円ではないが少額の金額で雨露をしのぎ生活することのできる快適なスモールハウスを作ることは可能だ。社会保障制度の網からたとえ落下してしまったとしても、人間何とかやっていける。いやより人間らしい生活が可能だというメッセージもすばらしい。でも廉価なモバイルハウスが市場に流通したらどうなるだろうか。BOPビジネスの主力商品になるかもしれない。

空中浮遊都市。国家を超えたパブリック空間。聞こえはよいが、その場所での富の再配分はどのようなシステムを取るのだろうか。空中浮遊都市ならそのインフラ整備には相当な金額が必要になるに違いない。住民は国家に帰属する代わりに、世界的に展開している保険会社に帰属するかもしれない。特定の国の上空には領土問題上浮遊する事はできないであろう。反対に空を解放する代わりに地上に資本を投下することを提案してくる国家も現れるかもしれない。実際にタックスヘブン・情報ヘブンを利用した人工国家の出現は近いかもしれない。私もとりとめのない夢想にはまり始めた。

最後に私にとって一番印象が強いのアンビルトな作品は、アーキグラムのウォーキング・シティでも、黒川紀章のHelixでもない。磯崎新の「エレクトリック・ラビリンス ふたたび廃墟になったヒロシマ」だろうか。実現する以前にすでに廃墟になっているメガストラクチャー。色々な意味で考えさせられる作品だ。








2012年8月3日金曜日

奇っ怪紳士!怪獣博士!大伴昌司の大図解展を見てきた

文京区は本郷にある弥生美術館館に、大伴昌司の大図解展を見てきた。
ウルトラシリーズに登場した懐かしい怪獣達の体内解剖図解の数々が展示したあった。バルタン耳やバルタン胃。エネルギーぶくろや、怪獣の弱点。1万トンやマッハ2や何万馬力などの具体的に記述されているが、凄いんだろうとしか漠然に思うしかない数値の数々。子供の頃に彼の怪獣図鑑を実際に所有して愛読したというハッキリとした記憶はないのだが、大伴の影響を受けたであろうと思われる色々な図解シリーズを小学生低学年の頃夢中になって読んだ記憶はある。特に未来予想が好きだった。立体テレビ。エアカー。未来都市での生活。ロボットが人間の活動をサポートし、テクノロジーの発達により深海や宇宙にまで活動範囲を広げる人類。科学がもたらす明るい未来。自分が大人になる21世紀はどんなによい時代であろうかと夢想する一方で、破滅的なイメージにも魅惑された。宇宙人の襲来。公害。食糧危機。大三次世界大戦。人類滅亡の予想。
大伴昌司の大図解展でも未来の予想についての展示に目が行く。彼の大図解の代表的な例として取り上げられるのが、「情報社会 きみたちのあした」《1969年(昭和44)『少年マガジン』掲載》なのだそうだ。今回私はこの展示で初めて知った。ちなみに掲載時私は4歳だ。
コンピューターによる犯罪分析と犯人逮捕、そしてなんとコンピューターが裁判の判決まで下す。他にも教育システム、自動車の自動走行システムや遺伝子操作による新しい生物の創造などが描かれている。現在インターネットを利用した学習などはもはや珍しくもない。自動走行システムのなどはグーグルが積極的に推し進めている。図解ではネズミ大の大きさの像やキリンが描かれていて気持ち悪い。でもそのうち生まれるかも、情報社会の花形として電話が取り上げられている。さすがだ。でも携帯電話までは予想していない。
面白かったのは「ドライブイン病院」自動車に乗ったまま、ファーストフードのドライブスルーを利用する感じで人体がスキャンされ、異常がなければそのまま走行を続けることが可能なのであるが、入院が必要とされる異常を抱えた人物の自動車は自動的に大型コンテナに誘導されそのまま病院送りとなる。さすがに自動車に乗ったままの診断は難しいだろうが、それこそスマートフォンのアプリのようなもので定期検診することが国民に義務付けされたりするかもしれない。それより飲酒運転撲滅のために自動車に生体検査システムが埋め込まれるのが早いかもしれない。それは同時に交通違反をはじめとし各種犯罪の予防捜査も利用される。なんだか私も三流SF作家の様な妄想に囚われ始めたようだ。
大伴の図解に戻ろう。原子力関係の記述にも注意がいく。ゴジラは言うまでもない。ガラモンはロボット怪獣で体内に原子炉を持ち放射能をまき散らすらしい。ガボラという怪獣は原発を襲ったそうだ。貝獣ゴーガは放射線の影響で巨大化する。ウルトラマンに出てくる科学特捜隊のビーグル号はあんな小さな機体を原子力エンジンで飛行している。冷戦下の核実験の影響と夢の技術としての原子力が共存しているのが感じられる。
展示は他にもホラーやミステリ、SF関連の仕事の資料なども。小松左京やアーサー・Cクラークとともに映っている国際SFシンポジウムのスナップもあり。少年雑誌からSF、テレビ脚本、映画評論まで多彩なジャンルで活動したプランナー、ジャーナリスト大伴昌司の様々な仕事が取り上げられている展示。見るというよりは、雑誌を読むそんな感じの体験をした。
弥生美術館に連結している竹久夢二美術館では、関東大震災を経験した夢二が被災した東京を歩き回り描いたスケッチと残した文章が展示されている。画家として、目の前に起こったことをしっかりと目でとらえ、残そうとする鋭く強い意志を感じた。

 


2012年7月20日金曜日

人生の奇跡 J・G・バラード自伝を読む。

J・G・バラード著 人生の奇跡 J・G・バラード自伝 東京創元社刊 柳下毅一郎訳 を読了。生まれ育った上海国際共同租界の風景、戦時中の収容所生活。このあたりの記述では小説「太陽の帝国」、そしてそれ以上にスピルバーグによる同作の映画の印象が強いので、バラードの自伝を読みながら私自身の過去の読書・映画体験を回想するという奇妙な体験する。30年前に「時の声」、「結晶世界」を読んで以来、すべての作品ではないが継続的に読んできた作家なので、作品体験が私の実人生のマイルストーンの様なものになっている事に気づく。文学体験とは己の人生を生きながら、他者の人生を部分的ににではあるが共有することだなと感じた。この様な感覚が生まれるくらい、バラードの上海は強烈で有り、そして懐かしかった。

バラード自身こう記述している。
いくらか好意的な読者は初期長編や短編から、すぐに「太陽の帝国」のこだまを読み取った。過去三十年間にわたしがばらまいてきたトレードマーク的イメージ───水のないプール、遺棄されたホテルやナイトクラブ、放棄された滑走路と洪水になる川───
はすべて戦時の上海にルーツを持っていた。長いあいだわたしはそのことに抵抗していたが、今ではまちがいなく真実だと認めている。わたしが抑圧しようとしてきた上海の記憶は床板を突き破って足元から飛びだし、我が小説の中に音もなくすべりこんだ。216頁より引用

このフレーズも心に響く。
上海を忘れるのに二十年かかり、思いだすのにまた二十年必要だったのだろう。英国に戻ってきた戦後すぐのころ、上海はけしてたどりつけぬ都市、二度と戻れぬ過去にうもれた黄金郷だった。213頁より引用

戦後、イギリスに帰国。初めて接する故国イギリスの文化・社会(黄昏れていく大英帝国)に困惑しつつも医学を学び(人体解剖のエピソードが印象的。少年期に数多くの死体に接したことのトラウマの超克か?)シュールリアリズムの芸術に心を魅了され、やがて小説家として生きることを志すバラード。空軍パイロットのための訓練で赴任したカナダの空軍基地の売店でSF小説と決定的な出会いをする。

わたしはSFに惹きつけられ、のめりこんだ。ここにあるのは、実際に現実を扱い、ときにはほとんどカフカのように簡潔で両義的な小説だった。SFは消費広告に支配された世界、広報活動に変容をとげた民主政府の存在を認識していた。それは我々が実際に生きている自動車、オフィス、ハイウェイ、飛行機、スーパーマーケットの世界だが、純文学からはきれいさっぱり抜け落ちているものでもあった。ヴァージニア・ウルフの小説の登場人物は一度たりと自動車にガソリンを入れたことはない。サルトルやトーマス・マンのキャラクターは一度も散髪代金を払ってはいない。ヘミングウェイの戦後小説は核戦争の脅威に長くさらされる影響をとらえていない。今見てそう思うのと同様、当時でもそれは馬鹿馬鹿しく、不条理なことだった。いわゆる純文学作家たちにはひとつの支配的特徴があった────その小説はまず第一に自分自身についてのものだったのだ。モダニズムの中心には「自己」が横たわっていたが、今そこには強力なライバル、日常世界があった。それは「自己」と同じように心理的構築物で、同じように謎に満ち、ときに精神病質の衝動をしめす。この禍々しき領域、気が向けば次のアウシュビッツ、次のヒロシマへと日帰り旅行に出かけるやもしれぬ消費社会こそ、サイエンス・フィクションが探求しているものだった。──以下中略── 国境までの日帰り旅行でわたしが見たものはカナダとアメリカに急速に訪れつつある変化だったが、その変化はいずれ英国にも到着するだろう。わたしはSFを内面化し、消費社会とTVランドスケープと核軍拡競争、フィクション的可能性の未踏大陸に潜む病理を見いだすだろう。わたしはそう信じた。  143から144頁より引用


この記述にはSF作家になろうとするバラードの決意表明以上のものが書かれている。1953年にSFに出会ったバラードが、果たしてその時、その後の20世紀後半にアメリカを中心として興る消費社会、マスメディアの日常生活への浸透そしてその影響力、テクノロジーの発展と同時に起こる軍拡競争などをどの程度予想していたか知るよしもないが、その後に書かれた数多くの作品が預言的であったことは言うまでもない。ショッピングモール、空港、高速道路、モータリゼーション、郊外、等々。90年代中庸以降日本の私達の思考の場所でもたびたび取り上げられるタームはすべてバラードの作品群から抽出されたのではないかと思うくらいに、バラード的世界を生きている。かつて私が東北の田舎町でバラードの作品を読みながら夢想した殺伐とした人類滅亡後の風景は、東京郊外を自動車で走れば、いくらでも車窓から否が応でも目に飛び込んでくる。とくに震災以降は現実がバラードを追い越してしまったと言っても過言でないだろう。

アポカリプス的な文脈で語られる事が多いであろうバラードであるが、それこそ彼の日常生活について知った事は救いであった。3人の子供を残し病死した若い妻亡き後のバラードは、シングルファーザーとして、育児に専念し、料理を作り、学校に子供達を送ってやり、迎えに行くまでの時間を執筆にあてていたのだ。子供達の成長の様。再婚相手との出会い。作品の中で幾度となく人類を滅亡させた男の実生活。

妻や子供達へのの愛情。父親であることの誇りと喜び。本書のタイトルも彼の子供達に由来するものであり、自伝は彼らに捧げられている。

自伝の最後は死因となった前立腺癌とその治療、そして死を覚悟し自伝を書こうという意志が生まれたことをさりげなく書き表し結ばれている。

ジェイムズ・グラハム・バラード 1930・11・15生〜2009・4・19没














2012年6月17日日曜日

管理社会。カメラとやりがい

近年TVなどの犯罪報道では、駅や店舗内部に設置された監視カメラの映像が良く使用される。警察の捜査の段階、事故の検証の段階では私達が見ている以上の映像の分析が行われているのだろう。そんな監視カメラをモチーフにパフォーマンスアート作品をつくった友人がいる。山岡佐紀子さん。タイトルは『天使の監視』

JR秋葉原駅構内各所に設置された監視カメラを人々を見守る天使に見立て、天使に祈祷するシスターを演じた山岡氏。秋葉原駅が十字架の形であること、駅を意味する英語stationには留まると言う意味があり、the stations of the Cross (十字架の道行の留)とうい成句はキリストの受難を表す14の像の前で立ち止まりながら祈祷するという意味であることなどから、私はキリスト教からの引用を使い管理社会をユーモアで皮肉気味に批判している作品だと思っていた。先日Facebook上で紹介をしたら早速作家本人からコメントをいただいた。
萩原様。一昨年の作品ですが、取り上げてくださってありがとうございます。最近のいくつかの犯罪で、まさに、監視カメラの話題が増えていますね。皆さんはどのように捉えておられるでしょうか。
 この作品は、プライバシーを侵害される問題の観点から入っているように見えますが、むしろそれよりも、「つながっている」ことを求める心の方をテーマにしています。たとえば、宗教は、その真実追求性よりも、多くの人にとって、コミュニティ性に意味がある。同じシンボルを共有する人たちの集まり。この「孤独な」シスターは、天使(実際は監視カメラ)に監視されていることを確認/感謝しながら、自らの身体を高揚させ、教会内(実際は秋葉原駅)での、廻廊巡りをしているのです。最後は、聖堂の祭壇(駅の真ん中あたりのロッカースペース)にて、キリストのゲッセマネの祈りを夢想し、殉教のイメージひ浸っています。

プライバシーの侵害はそれはそれで問題なのですが、それとともに、「孤立」する人々の方が私の興味の対象です。守らなくてはならないプライバシーがある人たちは、それなりに幸せだ。家族や友達、仲間、コミュティ、民族、宗教、国家。
つながりとは、足かせであり、生きる場所でもあります。
最近の大阪での通り魔殺人も、個人的に自殺するのは辛く、むしろ、刑務所に戻って、死を誰かに執行してもらいたいようですね。
秋葉原と言う場所は、孤立する若者にとって、シンボリックなロケーションだと、私は思います。形が、十字架だと言う事もずっと前から、気になっていたので。勿論、それは全くの偶然ですが。

コメントを読んで、また一段と作品の多義性に魅了される。プライバシー侵害が問題ではなく、逆に『つながっている』ことを求める心がテーマであり、孤立した人間に焦点があるという点。単なるアイロニーの表現ではなく、反対に絶望からの帰還を促すものに見えてくる。山岡氏の演ずるシスターの真剣さがユーモアと救済の隙間でさまよっている。孤立するもの達がかかえる空虚感は怒りの拳だけでは覆せない。

私もはじめは、プライバシーの問題からこの作品を見ていた。キリスト教モチーフが使用されている点に目が行ってしまったからかもしれない。キリスト教社会の世俗化が進むことによって、教会は国民国家と同質化し社会の中での影響力は消えていく、信仰の形態も無神論と化すことによって、人はおのおの自己を、己の神とし、主体の内部を持つにいたる。この内部の形成がプライバシーの発生だ。私達にはもはや告解は必要ないのである。

はなしが飛びすぎているようだ。ここは日本だ。山岡氏のコスチュームプレイに引っ張られてしまった。

重要なのは、私たちが何かの始まりに立ち会っているということだ。ジル・ドゥルーズ
記号と事件 追伸ー管理社会について 299頁 河出書房新社1996

ドゥルーズは1990年に管理社会について、短いが予兆にみちたテキストを書いている。フーコーが提出した規律社会から、現代のそして未来の管理社会への移行について書いている。規律社会においては監禁が社会を構成しているシステムであった。家庭、学校。軍隊、工場、監獄。しかし19世紀的システムは内部から徐々に崩れていく。規律社会では(学校から兵舎へ、兵舎から工場へと移るごとに)いつもゼロからやり直さなければならなかったのにたいし、管理社会では何一つ終えることができない。295頁
在宅介護・デイケアは監禁型医療システムの変化であり、それと同時に行われる予防医学の提唱は人々の意識を、病との戦いに日々送り込む生政治だ。生涯学習の重要性が唱えられ、教育機関のあらゆる局面に産業が入り込んでくる。私を高く値踏みしてください。情報インフラの発達により、あらゆる場所が職場となり、勤務形態の多様化が働き方の選択肢を増したようでもあるが、同時に不安定な雇用状態を容認する温床でもある。ノマドワークとはよく言ったものだ。冗談かと最初は思ったが。

人間は監禁される人間であることやめ、借金を背負う人間となった。しかし資本主義が、人類の四分の三は極度に貧困にあるという状態を、自らの常数 として保存しておいたというのも、やはり事実なのである。借金をするには貧しすぎ、監禁するには人数が多すぎる貧民。298頁

人間を取り巻く状況が、ますます市場的そして証券的な考え方になっていく。
私を高く値踏みしてください。私は健康です。私は将来の可能性にかけて頂きませんか?

広大無辺な時間の流れに放逐されて、人はみずからあわてて足かせを自分のあしに取り付けている。足かせ=生きる場所。それがないと生きていけないのは承知しているのだが、やりがい、未来、希望など一見ポジティブな言葉によって、自分の生を何かに隷属させてるのではないかと思う時がある。
だから、はなっから経済活動での成功や自己実現をあきらめた感じのするダウナー系男子を見て生き方としては有りかもしれないと思う私は、たぶんマッチョなんだろうね。








2012年6月2日土曜日

アート・公共・コミュニティ・交換/吉田謙吉と蟻の街

「父・吉田謙吉と昭和モダン」 塩沢珠江著 草思社 2012・2・15刊行 読了。
舞台美術家。築地小劇場での活動。ポスターデザイン。関東大震災後の、焼け跡に建つバラックを美術で装飾する「バラック装飾社」を今和次郎と結成。おなじく今和次郎と考現学を展開。映画の美術監督。衣装デザイナー。黎明期のテレビ番組の美術。店舗デザイン。パントマイムの普及に尽力。など様々なジャンルで活躍した吉田謙吉氏を、娘さんである塩沢珠江さんが家族ならではの視点と思いで書き綴った心和む評伝。
今年の春の鎌倉近代葉山での「村山知義」展、汐留ミュージアムでの「今和次郎 採集講義展」の影響から辿り着いた書籍のなかの一冊。
昭和のデザインへの郷愁(築地小劇場のポスターがいい!)をかき立てられつつも、私にとって新たな発見があった。そのうちの一つ。
「山羊のアリス」のエピソードがほほえましくも、今日の日本で再び考える必要のある問題を孕んでいる気がする。昭和25年の初夏に一匹の山羊が、吉田家にやってくる。その山羊の来歴が興味深い。
《山羊の名前は「アリス」。後年「蟻の街マリア」で知られるようになった
 バタヤ(廃品回収業者)村からもらったので「蟻の街のアリス」と謙吉が命名した。なぜ山羊を飼うことになったのか?「蟻の街」は、隅田川の事問橋付近、現在の隅田川公園付近にあった。「蟻の街」を応援し、そこに住んでいた知人の劇作家松居桃楼から頼まれ、(廃品回収の)第八車に絵を描いた。》45〜46ページより引用 以下3枚の写真も。そしてその絵を描いた大八車のお礼として蟻の街より山羊が吉田氏に送られたのだった。それにしても大八車に絵を描く吉田氏と奥さんの顔の楽しそうな事よ。吉田謙吉は廃品回収時に着用する廃品回収服なるものもデザインしている。昭和25年は、まだまだ復興の道半ばの東京であったにちがいない。貧富の差、生活環境の質の差は歴然とあったであろう。そんな時代に社会福祉活動に身を投じる人達がいて、その活動を自分のもっている技術で応援する人がいて、そして当の支援を受ける人達も人々の支援に対して、心からお礼をする。そんな人間力がある社会でもあった。今日、パブリックスペースやコミュニティをテーマとするアートはよく見受けられる。それは公共の側から、コミュニティの側から求められているものなのだろうか。フィールドワークと称して、コミュニティに入り込み、ワークショップの名のもと、地域住民を動員して作品を作った結果が、住民に何ら益のないもにならない保証はあるのだろうか。得をするのはアーティストだけにはならないのか。アートに対して返礼ができるコミュニティはそもそも力のあるコミュニティであるだろし、アートの側から一方的な提示をするだけなら、コミュニティはアートと関わる必要はないはずだ。念のために言っておくが、画家は看板を描けと言っているのではない。コミュニティにとってもアーティストにとっても、相互に交換されるものがなければならい。大八車は吉田謙吉にとって、数多くてがけた仕事の中の一つであった。そして同時に蟻の街の人達にとっては、重要な生活のための手段だったのだ。
第八車の下絵


2012年5月30日水曜日

展示を終えて。

長谷川謙一郎氏撮影
PILE DRIVING  フィールドワークの記録と妄想のインスタレーション
萩原富士夫+矢尾伸哉 展 先週土曜日26日に無事終了いたしました。多くの方にご来場頂いて誠にありがとうございます。数々の貴重なご意見ご感想をいだだきました。今後の作品制作の励みとなりました。そしてなにより矢尾伸哉さん、ともに新しい発見と経験を得ることができたこと心から感謝します。


2010年の夏、矢尾氏との会話の中からそれは始まる。人間の行為を、監視カメラのような上方からの視線で撮影したらどのように見えるのだろうか?上空からの視線が、身体の行為と場所の関係にに新しい枠組みを与えるのでないか?そんな疑問から制作は始まる。そして幾つかの撮影方法の中からバルーンを使用することを選んだ。 動画は空中に浮遊するバルーンの様子。第1回目の撮影地は以前ブログに書いた三番瀬。

 ヘリウムガスを充填させた3つのバルーンでヴィデオカメラを約10mの高さまで持ち上げた。
私はその下で、ハンマーで木製の杭を地面に打ち込んだ。資機材の運搬は自動車に頼らざるを得ない。よって自動車が入り込める場所。廻りに樹木等があるとバルーンがそれにふれて破裂する恐れがある。地権者に許可を得てからの撮影ではなく、ゲリラ作戦で行う等々の条件を満たす場所を求めて、東京近の郊外の造成地や河川敷などを車でフィールドワークする。結果として季節と場所を替え計3カ所で撮影をした。
矢尾氏によって編集された映像を見て面白いことに気づく。風船が大気の流れによって揺れるので全体が揺れ続ける映像になったことは予測の範疇であったが、行為を行う場所の固有性が希薄なのだ。匿名性を帯びた場所とでも言えるか。砂地であったり、草がまだらにはえた荒れ地という表面の質感は見て取れるのだが、それが一体どんな場所なのかが、はっきりとしない。たぶんバルーンの浮遊高度をさらにあげれば車道や畑、河川などが画面に映り、場所のイメージがより具体的になるのだろうが、そうすると今度は行為する身体が見えなくなる。場所のイメージが、水平的なまなざしによって生まれることがよくわかった。それが風景というものなのか。場所と風景には差異がある。

ここで言葉遊びを一つ。私達は撮影地を探して車を走らせることを旅=travelととらえた。
travelはtravailと同一な起源を持つ。travail =苦労、陣痛、骨折り、苦労した仕事。こんな言い回しもある。travels in the blue  白日夢、放心。原義は旅の骨折れ。そしてこれらの英語はtripaliumというラテン語からきた。tripalium=three pile  三本の杭。それは罪人を拷問するための道具のこと。

さて展示であるがここで私が一人で語れるものではない。矢尾氏との共同作業。複数の思考の流れがそこにある。いずれ何らかの形式に二人でまとめるつもり。Facebookにより多くの写真をアップしてあります。アカウントをお持ちの方は是非ご覧になってください。



矢尾伸哉撮影

2012年5月16日水曜日

PILE DRIVING

よいよ来週月曜日から東京の表参道画廊にて矢尾伸哉さんとの共同制作品PILE DRIVINGの展示をします。ただいま制作の最後の追い込みをやっている最中です。ダンスを中心に活動してきた私にとって初めての美術制作。しかも共同制作です。矢尾伸哉さんは、古くからの友人であります。主に写真・映像を手段として作品を制作している作家です。パフォーマンスアートも行っていました。そのうちこのブログで再検証するつもりですが谷中会議という10年以上継続したパフォーマンス・ミーティングの主要メンバーでありました。今回の展示は私がダンスを通じて感じていた身体観を、いったん解体し、別のものに作り直したいという提案を矢尾さんが受けてくれることから始まりました。2010年の夏のことです。私の暴走する妄想を、矢尾さんが鋭く批判し切り返す。行為する者、撮影する者の違いを超えた、ある共通の場所感が生まれてくる。そしてようやくかたちになりました。皆様、よろしくお願いします。表参道画廊ホームページプレスリリース

2012年5月6日日曜日

三番瀬 東京湾で考える

4月30日に、千葉県船橋市の船橋三番瀬海浜公園に行ってきました。三番瀬とは浦安から市川、船橋、習志野市にかけての沿岸にある巨大な干潟です。一般的に汚いというイメージでとらえられがちな東京湾の中で、三番瀬の水域には豊かな生態系があります。アサリや海苔、スズキ、カレイ等の江戸前海産物の貴重な漁場であり、シギ、チドリ、アジサシ、スズガモなどの渡り鳥の重要な中継地で、渡りの季節には多くの種類の鳥達が騒々しく鳴きながら、ゴカイやカニや貝を食べて渡りに備えている姿が見られます。鳥たちは習志野市にあるラムサール条約に登録された谷津干潟と三番瀬の間を往復しているようです。埋め立てが進む前は谷津干潟も三番瀬と繋がっていたのでしょう。このような干潟は世界各地にありましたが、農耕に適さないヘドロの海と見なされ、干拓、埋立地によって次々に消滅していきました。今は生物多様性の観点のみならず水質浄化作用もあるとされ
保護すべき貴重な場所と見なされています。
三番瀬海浜公園から浦安市を望む

私はこの海から、色々勉強させてもらいました。湾岸地帯の工場や倉庫群を通り抜けた先に広がる干潟とその自然。人間の営為と自然とが接する境界線。そんな場所が東京湾の最奥部にあるとは知りませんでした。実際に歩いて見てみないとわからないものですね。
初めて行ったのは94年でしょうか。私はすっかりバードウォッチングにのめり込みました。双眼鏡と図鑑を持ってかよったものです。水鳥たちの様々な形態の嘴や、捕食のスタイルの違い。鳴き声。群れになって飛行する際の複雑なフォーメーション。渡りの季節、ああまた会えたという感じ。潮の満ち引きで変わる干潟の表情。水の時間。
干潟での体験から私は初めてソロダンスをつくりました。「水と羽」です。白い模造紙を干潟と見立てて、その紙とどうか関わるか?ということを振付の軸としました。今思い返すと、かなり自分の心象スケッチに依存しすぎた感がありますが、初めてのソロということで生々しく覚えています。また挑戦したいと思っています。

三番瀬の水鳥たち。

そんな思い入れのある三番瀬ですが、豊かな自然といっても、他の水域と比べてということで、手放しで楽観視していれば状況は悪くなるでしょう。最近では河川より東京湾に流れ込む放射性物質の堆積などが懸念されています。また陸地の公園も液状化現象や地盤沈下があったようで立ち入り禁止区域が多くありました。陸地の人間の世界と柔らかい干潟の自然の対立を見るような感じがしました。

集められた漂着物

2012年4月30日月曜日

オン・ザ・テーブル 霜田誠二パフォーマンス

4月28日 Steps Gallery(銀座)の霜田誠二展「米麹で」の最終日に行く。
画廊のブログhttp://stepsgallery.cocolog-nifty.com/ 
米麹でどんな作品を作ったのかという興味もあったが、とにかくわたしのお目当てはパフォーマンス作品の「オン・ザ・テーブル」である。何の変哲もない小さなそしてとてもチープなダイニングテーブルの上に全裸の霜田氏が乗り、微速でポーズを変化させていきながらなんとテーブルの裏面にしがみつき、床に一切触れずテーブルの廻りを一周するというもの。パフォーマンス遂行上のタスクはいたってシンプルなのだが、豊かで奥深い時間が出現する。観念を廃したまさしく裸形の肉。様々な表象を次々に産出させる微速によるディテールの豊穣。観客が行為のタスクを了解するやいなや、見る者は霜田氏の肉体に乗り移りタスクの遂行を共に行っている感覚に襲われる。まだまだ書きたいことがあるのだが、あの作品体験を記述できる言葉の力が私には足りない。これはオン・ザ・テーブルを始めて見たときから感じていることだ。いかに自分が観念的にしか肉体を見ていないか知らされる。同時に肉体表現の可能性を喚起させられるのも事実だ。1991年福島県の廃校・廃坑でおこなわれた田島パフォーマンスフェスティバルに参加した際に初めて私は、オン・ザ・テーブルを見みた。
フェスティバルに参加した友人達と作品を語り合ったことを思い出す。2回目はギリシャのアテネ。95年だったか。私は黒沢美香さんの欧州ツアーに参加しており、同じ劇場で上演したのだ。お互いの作品を酒をのみながら語り合ったのを覚えている。そして今回は三回目。そして私はオン・ザ・テーブルを初めて観ている感覚に襲われた。デジャヴの反対の感覚。しかし未知なる作品ではないのだ。絵画体験に似ているのか。同じ絵画を時間をへて再び経験する時の感じにている。観るたびに発見するという経験知の刷新ではない。そこに行為する肉体があるという事態への反復した参与の感覚。1回目、2回目、3回目といった序数的な参与ではなくある確からしさのもとに再帰する感じなのだ。そのような経験はパフォーマンスやダンス作品ではなかなか希なのである。
ちなみに今回霜田氏はテーブルと共に床に倒れ込んだ。再度チャレンジするもまたまた失敗した。霜田氏は動転する様子もなくテーブルの上に乗り静かに横たわり行為の余韻を官能する時間を経て終了。タスクの遂行は失敗したがパフォーマンスは成功した。パフォーマンスにとって何がその作品性を成立させているのか考えさせられた。再現可能性ではなく、ある質感をもった時空へのアクセス性とでも言えるかもしれない。日本のみならず世界中で何百回と繰り返しおこなわれているにも関わらず、常に一回目として反復する。
パフォーマンスのあと霜田氏の絵画を見直すと、霜田氏が観たであろう異国の風景を、霜田氏の目を通して自分も観ている気持ちがしてきた。パフォーマンス最中に微かに漂った発酵臭は玄米麹のものなのか霜田氏の体表から浮き出た汗の臭いなのか定かではない。