2013年12月3日火曜日

「目まいをする準備」終了しました!!

萩原富士夫×さそうすなお Oval Dance series vol.1 「目まいをする準備」ダンス公演無事終了しました。立ち会ってくださった皆様、ありがとうございました。危なっかしい二人を支えてくれたスタッフの皆さん、お疲れ様でした。そして二人の素っ頓狂な企てを厳しくも、慈愛あふれる眼差しで見守ってくれたStudioGOOの吉福さん、長谷川さんに心から感謝します。

上演中の躁状態から徐々に、カラダと感情が解かれていく公演後の時間が好きです。高熱を発した病気からの快癒期のようなけだるさと、過ぎ去ったあの濃厚な時間に焦がれる恋愛感情にも似た、そわそわと浮き足立った気分が入り交じった状態。その中で言葉を探り、体験を整理し反省しようとするのだが、たった3回の公演ですら言葉では辿れない深さと豊かさを私にもたらしたのだなと実感している。

初日に黒沢美香さんが観に来てくれた。
「何故ダンスは、かくもかそけきささやかなものを表現しようとするのだろう。」と終演後の雑談での彼女の言葉が心に残る。

演劇や映画にはない「弱さ」が、ダンスの魅力の一つなのかもしれない。身体の有限性を隠すことも騙すことも、ましてや反復できないダンスという方法がもつ本質的な脆弱性。
それは人生の一回性、時間の不可逆性をもとにした、時の流れの中に起こる偶然による未知なるものとの遭遇の肯定を言いたいのではない。同じことは二度と起こらない。然り!
しかしまた生々流転、諸行無常を肯定しているのなら何故、作品という船で上演という形式をもちい時の流れに漕ぎ出すのか。偶然も必然も過去を振り返ればの事なので、船の切っ先にはないのだ。そんな奮い立つ気概に寄り添う様にしてある「弱さ」。

今回のダンス作品「目まいをする準備」の種あかし。
事の起こりは、私が武田泰淳の晩年の作品「目まいのする散歩」に出会ったこと。

『六月の午前七時、久しぶりの好天気に誘われて、山小屋を出る。医師に禁じられた酒をのむと、ついふらふらと無理がしたくなる。外出する必要は全くないのに、庭の坂を登りつめて、門の外へ出た。多少の努力感はあったが、警戒していためまいの現象は起こらない。』目まいのする散歩の冒頭部分。

武田泰淳ははっきり申し上げて今の今まで読んだことがありませんでした。私の友人には、萩原には泰淳が似合うという人もいましたが、似合うと言われると自分を見透かされているようでよけいに読みたくなくなるもので、その発言を聴いてから20年間手にとる事などなかったのに、ふと立ち寄った小さな書店で散歩文学の特集書棚が設けられていて何気なく手に取ると、冒頭の文章、医師に禁じられた酒・・・以降の文にはっと自分の未来が書かれているような気がして、思わず買って一気に読んでしまった。友人はやはり私の本性を見抜いていたのだった。

脳梗塞かなんかで倒れた泰淳がふらふらとよろめきながらあちらこちら散歩する。しかし闘病記などでは決してない。散歩にかこつけてなんでも書いていく。東京大震災や中国大陸での戦争の体験、ソビエト連邦への船の旅、飛行機の旅も散歩にしてしまう。しかも目まいのする身体のドライブ感が心地よい。そして何より私の興味を引いたのが、その文章を泰淳の妻である武田百合子が泰淳の言葉を口述筆記で書いているのだ。そしてそれについて隠すのでもなくしっかり言及しており、時折これは百合子の文章がオリジナルなのではと思わせるところが幾つかあるのだ。多層的な言語空間。豊かな身体性。ユーモア。ニヒリズムを超えた清々しい恍惚感。ノックアウトされてしまった。なんとか作品にできないかと思った。


黒沢美香さんのある作品に参加し、その中で人時計というチームをさそうすなおさんと組むことになった。その稽古の合間に、「目まいのする散歩」の話しを彼女にふった。さそうさんは武田百合子の熱心な愛読者だった。

ということで「目まい」のダンスは始まった。

まずはテキストの読解。そしてテキストのrepresentation=再現前化=表象=上演ではなく、
テキストを二人の関係に取り込み、ダンスを発動させる「問い」の装置として機能させる事を企ての肝にすえた。

往復書簡。野外での稽古をへて一年かけてスタジオワークへ移行した。
わざと遠回りして、試みの中で迷子になろうとするくらい「目まいのする散歩」をしたと今は思う。例えば以下の動画を観ていただきたい。
隅田川の川岸をバルーンを持ちながら散歩した。ルールがある。川下、河口を目指し二人は右岸左岸に分かれた歩く。橋のたもとに到着したら橋を向こう岸に渡り、各々の歩く川岸を交換する。これをダンスとは呼ぶ必要はないが、一つの風景を別の角度から見る事や、対岸の見えない相方の歩行をイメージすることが重要な稽古だと思った。

「川という漢字を見ていると三つ編みにしたくなる。」byさそうすなお
この稽古は川を編む、川編み Kawa-ami と名付けた。
動画撮影 矢尾伸也 




過去を振り返るのはこのくらいで。今回の公演の写真を何枚かアップして今回のブログはひとまず終わり。最後に他者と共同作業することの素晴らしさを教えてくれた、さそうすなおさんに感謝したい。自分の問いかけが、他者の身体、思考、想いを通じてさらなる大きな問いとなって戻ってくる事への驚きと、その問いに対する責任を感じます。
responsibility/ response+ability  責任とは問いに応答する能力なのではないだろうか。
そしてその問いは、私達に先行して存在した、存在するあまたの存在者から引き継がれているのかもしれない。例えば泰淳の文章から私達が問いを見つけた様に。

                  
                    

                                           
                
撮影 矢尾伸也さん 今回また照明の合間に。ありがとうございます。




2013年11月14日木曜日

 萩原富士夫×さそうすなお Oval Dance series vol.1 「目まいをする準備」

ダンス作品を上演します。
黒沢美香&ダンサーズで活躍中のさそうすなおさんと、新しくダンスユニットを作りました。

萩原富士夫×さそうすなお  Oval Dance series vol.1
 「目まいをする準備」

テーブルには、熟した果物、
書きかけの手紙、拡げられた地図。
取り替える事の出来ない記憶を窓から投げ捨てて、散歩に出かける。川へ。
一人は右岸。一人は左岸に分かれて歩く。
向こうに見える橋で落ち合おう。F・H

見えない文章というものがあって、それを二つの違う言語に翻訳し、声に出して読み上げ、互いに聞き合う。そんなような作業をからだでやっていく。何度も何度も。鳥類と魚類ぐらいにかけ離れた生態に従い、泳ぎ、囀り、歩き、張り付いて、空白の輪郭をなぞる。何度も何度も、なぞっていく。
二本の軌跡が隆起して、いつかその間に川が流れ出しますように。S・S


日時 11月30日(土) 19:00
   12月1日  (日) 15:00/19:00
   *各回30分前に開場

料金:予約1,000円
   当日1,500円

場所 StudioGOO   世田谷区粕谷4-7-19 

予約・問い合わせは萩原まで。fujioh3776以下アットマークGメールで。

よろしくお願いします。





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2013年11月13日水曜日

Ashio Project 野点/足尾 無事終了しました。一座建立。

11月9日土曜日。足尾の砂防ダムの向こう側の河原での野点は無事終了しました。
東京出発の頃は曇天。しかし日光道を降りた辺りから時折晴れ間が。
本山精錬所あたりで車を降りて、渡良瀬川沿いをしばし上流に向かって歩く。
龍造寺で、精錬所からの有毒ガスで廃村(1901年)となった松木村の無縁仏と
鉱山を渡り歩いて足尾で死んでいった渡り抗夫の墓に合掌。
銅親水公園に到着した後、みなで資材を持って丘を越える。
長靴を履いて、小川を渡る。いつの間にか吹き出した強風の中での会場の設置。
抹茶は飛ぶし、河原に敷き込もうとしたスタイロフォームは宙に舞い、終いには用意したカセットコンロが不調で点火せず。
叫び声と、笑い声。危機感となるようになれという愉快な気分が湧いてくる。
参加者全員で、シートを抑え、石を重しの替わりとし、河原の石を集めて竈をつくり、そこにライターで着火したガスコンロを置いた頃から風が落ち着く。
ヤカンに参加者がそれぞれ持ち寄った水を入れお湯を沸かした。
私は旧古河庭園で拾った三つの小石を持って河原を歩く。
気に入った石を拾い上げて替わりに東京から持ってきた石をその場に置いた。
松木川の流れで小石を清める。
全員、即席で作られた緋毛氈の上に着席。末席には村田さんが連れてきたバービー人形。まるで依り代のよう。緋毛氈も一つの結界のようだ。
村田いづ実さんが、心を込めて一椀づつ茶を点ててくれる。
空を見上げながら、一口。川の流れの音をを聞きながら一口。足尾の荒涼とした山々を眺めて一口。冬の寒空の下の暖かいお茶は甘露でした。
全員がお茶を頂きお手前は終了。そのまま会場で足をくずしお弁当の時間へと思ったとたん空からぽつり、ぽつりと雨粒が。山の天気は変わりやすい。大事になる前にと、スピードで撤収作業。奇跡的な凪と晴れ間の間に野点は行われたのでした。
写真とムービーはいずれ作品化して公開する予定です。
撮影を担当していた矢尾さんのコメントによれば、茶席に座る参加者は筏にのって漂流している人のようであった。しかもみなお辞儀をして笑っている。とても不思議な集団に見えたとのこと。

様々なアクシデントをへて、いや困難を皆で通過したが故に、主客合一の一座建立がなされたと東京に帰ってからもしみじみ思ってます。写真は足尾から持ち帰った三つの小石。
この小石は足尾鉱毒事件で消滅した旧谷中村・現渡良瀬遊水池に旅します。
もちろんそこでも私達は一座建立を試みます。

2013年11月6日水曜日

Ashio Projectの為のノート3 三つの小石のパフォーマンス



昨日私は、旧古河庭園で、三つの小石のパフォーマンスを行いました。
庭園内に敷き詰められている石の中から、これはと思う形と大きさの石を拾い上げ、近くのつくばいの水で洗い清めました。写真がその小石です。なんの変哲もない石ころですが、この三つは足尾の山に旅します。九日に行うAshio Project 野点/足尾の会場となる河原で、私はあらたに三つの小石を拾い上げます。替わりに写真の小石を拾い上げた場所に置いていきます。足尾の小石は、渡良瀬遊水地の谷中村があった場所に旅をします。そこで谷中村の石と交換します。谷中の石は東京に旅をして古河庭園に置かれることになります。
三つの場所の三つの石を交換するこのパフォーマンスは、田中正造の遺品を見た経験から生まれました。遺品についての投稿は以下リンク先。

2013年11月5日火曜日

Ashio Project  野点/足尾 


足尾銅山。渡良瀬遊水地(旧谷中村)。旧古河庭園。複雑に絡み合った歴史をもつこの三つの場所の風景と記憶をつなぐフィールドワーク。今回は栃木県日光市足尾町で、野点を行います。場所は渡良瀬川の上流、足尾砂防えん堤の向こう側、九蔵川、松木川、仁田元川が合流する地点の河川敷で、足尾の山々を望みながら行います。山の向こう側は、日光中禅寺湖。この時期は紅葉の真っ盛り。しかし足尾の山々は、かつて足尾銅山精錬所から排出された、有毒物質を含む煙によって樹木は枯れてしまい表土が流出し岩肌が露出しています。現在植林活動が進められていますが、いったん失われた緑を復活させることは、そう簡単にはできないようです。砂防ダムが建設されたのも、樹木の消失による山肌の露出が原因となり、雨水によって表土が崩れておこる土砂災害を防ぐため。山が荒れると、川も荒れます。

Ashio Projectは、2009年より始めた萩原富士夫の個人的フィールドワークに賛同した、
村田いづ実(パフォーマー・アーティスト)矢尾伸哉(アーティスト)両名が2012年に加わることで発足したフィールドワーク型アートプロジェクトです。

幾つかの野外実践を試みながら作品を制作していきます。

Ashio Project 足尾/野点 2013年11月9日 正午

場所栃木県日光市足尾町

コンセプト/萩原富士夫 野点/村田いづ実 アーカイブ/矢尾伸哉

お茶会は予約してくださればどなたでも、無料で参加できます。しかし現地は東京から遠い場所です。交通費、ガソリン代がかかります。ちょっとした山道を歩きます。沢歩きではありませんが、小川を渡ります。防寒着、丈夫な靴が必要です。ちょっとした冒険です。興味のある方は是非、私に連絡ください。fujioh3776以下@Gメールで。
行程や装備についてガイダンスいたします。
鉄道利用の場合は渡良瀬渓谷鐵道終点の間藤駅着10時57分着となります。事前に連絡してくだされば迎えに行きます。自動車は、銅親水公園内に無料駐車場があります。
緑の矢印の地点で、茶をたてます。

何回か野点の稽古しました。(私自身はまったくの素人なのですが、村田さんはお茶の師範でもあるのです。)茶碗を持つ両手が空の底にあり、すうっと喉を通り胃に落ちていく暖かいお茶が、更に大地に向かって浸みていく、そんな感じを得ることがありました。


航空写真でみると足尾の山が他の山と比べて荒れているのがわかります。
緑の矢印の地点で茶を点てます。




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2013年10月27日日曜日

Ashio Projectの為のノート2 田中正造の3つの小石。

少々前の話になるが、9月7日に田中正造の遺品を、佐野市郷土博物館で見た。今から100年前の9月4日に田中正造は亡くなった。支援者を訪ね歩く旅の途上で正造は倒れる。病床の枕辺には菅笠と信玄袋。袋の中には大日本帝国憲法とマタイ伝の合本。福音書。日記。ちり紙。川海苔。河川調査の草稿。そして小石が3つ。憲法や聖書はわかるのだが3つの小石をなぜ持っていたのか。遺品については評伝で読んだことがあるのだが、その時も3つの小石の事が気になった。官兵や、正造と敵対する陣営と闘争状態になった時の護身用で、投擲するものかと思ったりもした。

博物館のキャプションで真相を知る。私財をなげうって、足尾鉱毒問題に取り組んでいた正造の晩年は大変貧しかった。そんな正造のささやかな楽しみは出かけた先で見つけて気になった路傍の小石を拾うこと。そして彼は、彼の支援者に一宿一飯の返礼として、書をしたためその小石をそえて渡していたのだそうだ。

正造の日記にこういう記述がある。

正月九日 うつの宮ニ来泊す。思うニ予正造が道路ニ小石を拾うハ、日なる小石の人ニ蹴られ車ニ砕かるるを忍びざればなり。海浜に小石の日なるを拾ふハ、まさつ自然の成功をたのしみてなり。人の心凡此くの如シ。我亦人と同じ。只人ハ見て拾わず、我ハ之を拾ふのみ、衆人の中ニハ見もせずして踏蹴る行くもの多し。
田中正造全集十三巻384頁 日記 大正2年(1913)1月

正造は小石に、大地に生きる名も無き人たちの姿を見いだしたのだろうか。遺品を前に、小石に託した正造の気持ちに想いをはせた。学芸員の説明によると、支援者の家には今も正造から受け取った小石が大事に保管されているそうである。







2013年10月20日日曜日

萩原富士夫ソロダンス☆2013終了しました!

萩原富士夫ソロダンス☆2013
「ルクレティウスが書いているとおり映像が飛来する皮膜なら、
目の前のダンスはあなたの視覚に対する愛撫もしくは殴打に他ならない。」
先週の日曜日無事終了いたしました。
目撃してくださった皆さんありがとうございます。
音響・照明を担当してくれた矢尾伸哉さん。
受付及びインスタレーション協力のさそうすなおさん。お疲れ様でした。
そして毎度毎度の私の無謀な試みを、暖かくそして厳しく見守ってくれたStudioGOOの吉福敦子さん、ありがとうございました。

終演後は様々な貴重な意見、感想をいただきました。興味深いことは同じ事象に対して真逆の見方が成立していたことです。作品の善し悪しはぬきにして、ダンスが自分の身体から離れてメディアとして機能したことを実感しました。

白いつなぎや防塵マスクからフクシマのことを想起した人は、少なくありませんでした。
実はキューピー人形とバラの花以外は私が日頃現場で使用しているものです。
空間構成に使用したビニールフィルムはオフィスの改修工事での空調機や天井の撤去の際、間仕切り養生に使っているものです。ピンクの防塵マスクはアスベスト含有物を撤去する際に使用します。それらは私の労働身体を構成している要素なのです。なんら特殊なことでは無く、東京のどこかのオフィスビルの改修工事で使われている物を、場所とコンテキスト変えて使用するだけでまったく違うメッセージを発するのは不思議なことです。

 あと、劇場には魔が棲んでいるのですね。上演ではルクレティウスのテキストを、キューピー人形に読んで聞かせて、それをライブ録音し、それをアンプをとおして再生したり、リベルタンゴを流してダンスしたのですが、2日目はそれらの音源であるノートパソコンが上演中にまさかのフリーズしてしまい、終始無音で踊りました。てっきり私はオペレーターの矢尾さんが「音に頼るな、無音で踊れ!!」と即興で難問を突きつけてきたのだと誤解。
「ならばいっちょうやったるぜ!!!!!」と言う気概で発憤。じっくり踊ることができて濃厚な時間となりました。終演後トラブルだと知り唖然。だって矢尾さんは表情を全く変えず冷静に私を見ていたのです。まあ結果オーライで、一つの作品が二度おいしくなりました。
一日目はコンセプトと構造の提示。2日目は身体の提示とでもいいましょうか。そして不思議なことに終演後は音が出ました。リベルタンゴを聴きながら撤収作業しました。

以下の写真は矢尾伸哉さんが照明・音響の合間に撮影してくれたものです。


                  

                                            
                                           
                                                                                                

       
                             
                     
   
    
                                                           




2013年10月1日火曜日

ソロダンス告知他

9月22日(日曜日)蒲田にあるバー、Studio80でダンスをした。以下はその様子。


ZIZAIKANという即興を探求する連続イベントの一つ。今回はギターとダンスの完全即興。3組登場。私はZIZAIKAN主催者のSEIDOさんと組むことに。SEIDOさんとは、黒沢美香企画で何回か共演しているのだが今回のようにがっちり組んだのは初めて。しかも最近はかつてのように即興を中心にしたダンスはしていないので、ちょっと新鮮な気持ちで場に臨んだ。ダンスするまえに自分に釘を刺しておいたことがある。記憶の反復、手癖、カラダ癖(?)の羅列にならにようにしよう、場所に立ちながら自分の引き出しの中だけを、探し回ることだけは止めようと思ったのだが、これがなかなか難しいことだった。そしてそれは音との関係にも当てはまる。音楽が成立する次元と、ダンスが成立する次元は、はなっから異なるのだと、その差異を安易に肯定して自分の身体に籠城するのもダメだ。音を聞く身体と、ダンスする身体の差異を最後まで意識しようとした。身体の中の様々な差異が生み出す力の流れを動きにしようと七転八倒。興奮していたのだろうな。微細な流れを拾いきれなかった。反省。そして久しぶりに他者と切り結ぶ機会を与えてくれたSEIDOさんに感謝!

さて今年もソロダンスを上演します。
去年は世阿弥のテキストからダンスを立ち上げることを試みましたが、今回は古代ローマの哲学者ルクレティウスのテキストをもとにダンスを試みます。


萩原富士夫ソロダンス☆2013
「ルクレティウスが書いているとおり映像が飛来する皮膜なら、
目の前のダンスはあなたの視覚に対する愛撫もしくは殴打に他ならない。」
10月12日(土曜日)19:00
10月13日(日曜日)17:00 両日とも30分前開場。料金 予約1,000円 当日1,500円
場所 Studio GOO 世田谷区粕谷4-7-19 
予約・問い合わせは萩原まで fujioh3776@以下Gメールで。
よろしくお願いします!!!



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2013年9月20日金曜日

忘備録 馬捨場 江戸の大地 脱落地

荒川区西日暮里に住んでいる私のお気に入りのジョギングコースは、疎開道路をとおり、都電荒川線をこえて都立尾久の原公園を周回するコースだ。時間と体力に余裕があるときは隅田川にそって走る。川沿いの開けた空間が心地よい。尾久の原公園と隅田川との間にちょっとした緑地帯がある。その一角に「馬捨場跡」がある。小さな祠や石仏などが祀れているのだが、荒川区教育委員会による「馬捨場跡」に関する説明が非常に興味深いのでここに全文を書き写しておく。(ちなみに千住大橋までの隅田川はかつては荒川と呼ばれていた。)






荒川区教育委員会の説明文

上尾久村の馬捨場跡(馬頭観音)
馬捨場の本来の位置および範囲は、東尾久七丁目三六一二番地、三四八四番地あたり(西方五十メートルのところ)と推定される。平成十二年、スーパー堤防の建設に伴って小祠や石像物がここに移設された。
かつて、荒川沿いのこのあたりは、秣場(まぐさば)と呼ばれていた。秣場とは、田畑への施肥である刈敷きや、牛馬の資料をする草の共有の採取地のことをいう。江戸時代後期には、新田開発されていくが、その呼称は地名として大正時代まで使われていた。
この秣場の中に、馬捨場があった。牛馬は、田畑を耕すため、荷物の運搬に欠かせない動物であり、特に馬は、軍事用、宿駅の維持のために重視された。しかし、年老いたり、死んだ際には、ここに持ち込まれ、解体されて、武具・太鼓などの皮革製品や、肥料・薬品などの製品として活用されることになっていた。こういった馬捨場は他の各村々にも存在し、生類憐み令では、解体後の丁重な埋葬が求められた。
明治時代になって、馬捨場は使命を終えるが、荷を運ぶ運送業者の信仰を集めたり、戦争で徴用された馬を供養する場ともなり、跡地は別の意味合いを帯びていくようになっていった。近年まで、馬の供養のための絵馬を奉納したり、生木で作ったY字型のイヌソトバを供える習俗が残っていたという。現在、天保十二年(1841)及び大正時代の馬頭観音のほか竹駒稲荷などが祀られ、また開発によって移された石塔類も置かれている。この内、寛永十五年(1638)十二月八日銘の庚申塔は荒川区最古のものである。

かつて日常であった人間と馬との深い関係が偲ばれる。そして今でも朝夕に祠の前で手を合わせている人が見受けられる。Google mapのストリートビューでこの場所を見たら、ちょうど祠の前に人がいた。拝んでいるのかは定かでは無いが、一応リンクは貼っておきます。



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上記の教育委員会の説明を読むだけでは、明治以前の農村風景をノスタルジックに想起し戦争に徴用された馬の記述に哀れみを感じたりするのだが、例えば馬捨場がある人々には生活の糧を得る、大きな利権の場であったことはなかなか想像しがたい。
死牛馬取得権という言葉がある。その権利が如何に富を生み出す物であったか。それについて書かれた喜田貞吉「牛捨場馬捨場」というテキストを青空文庫で見つけた。(1924年大正13年)被差別部落民と馬捨場の関係。大きな特権であった死牛馬取得権を、形ばかりの解放令(明治4年1871年)で失い生活が大変であったという。複雑で難しい問題なので私ごときが気軽にコメントできるものではないので、一度よんでもらいたい。以下青空文庫リンク。http://www.aozora.gr.jp/cards/001344/files/54853_50038.html

これまたネット上の情報なので情けないが、脱落地なる言葉を知った。明治6年1873年の地租改正により官有地と民有地を区別した際に分類から脱落した土地のこと。地図に番地がなく土地登記簿にも付されていない。現在では「馬入れ」「芝地」「石置」「根除掘」「畦畔」「稲干場」「死獣捨て場」などの表示はあるようだ。「死獣捨て場」は馬捨場のことだろう。江戸時代、村の共有地であった場所だった為に脱落したのであろう。

関東財務局の国有財産についてーよくある質問と回答ー Q12に脱落地とはなんですか?とある。平成の大地も一皮むけば江戸の大地が露呈する。しかもその大地は複雑な社会システムを表象している。以下関東財務局資料。http://kantou.mof.go.jp/content/000046443.pdf

ついでに。先の喜田貞吉のテキストの終わりの方に「稲場」という言葉が出てくる。喜田はそれを「稲場とは収穫後田面の落穂を拾う権利であるかと思われる。」と記している。これなぞはミレーの落ち穂拾いのテーマそのものだ。コモンズ=共有地

いろいろ連想が生まれるのだが、如何せん勉強不足。今回は「馬捨場」という気になる場所と出会ってしまったというメモ。


2013年9月10日火曜日

Ashio Projectの為のノート1 「都市の無意識」と労働身体および精神的同胞性について

7月の中旬から8月の前半にかけて、私は知り合いのダイヤモンドボーリング屋さんの応援で、川崎市生田緑地の近くにある長沢浄水場に仕事に入った。長沢浄水場といえば聖橋や武道館を設計した山田守の作品ではないか。http://ja.wikipedia.org/wiki/長沢浄水場  
長沢浄水場!憧れの建築の中で仕事ができるぞとワクワクして現場に向かったのだが、私の現場は同じ長沢浄水場でも川崎市水道局のもので違う敷地であった。山田守の方は東京都水道局で、川崎市の施設に隣接していた。残念。昼休みに隣の敷地から背面をiPhoneで撮影。

さらに現場から帰るハイエースの助手席からもう一枚。
上手くとれなかったが、ラッパというか、キノコというか柱の形がすてきだ。守衛室も同じ柱。ウルトラマンやゴレンジャーのロケも行われたこともある施設。有る世代の男性にはたまらない建築ではないだろうか。

さて肝心な仕事であるが、浄水槽にポンプ等の設備を取り付けるための下準備としてコンクリートの躯体をコンクリートカッターで切りつけ、ブレーカーで鉄筋をハツリ出す作業であった。折も折、記録的な猛暑の時期と重なり過酷な仕事となった。コンクリートを破砕するので防塵マスクは欠かせない。足場を上り下りするだけで息が上がる。一人一台にあてがわれた送風機の風を浴び、水分をこまめに補給しながら熱中症にならずに現場を終えた。休み時間ごとに作業服を取り替え、毎晩帰宅するとコインランドリーに直行する日々。とにかく暑い日々だった。

そんな仕事をやっている最中に東京国立近代美術館の企画展、「都市の無意識」の最終日に滑り込む。http://www.momat.go.jp/Honkan/unconsciousness_of_the_city/#outline
私のTwitterのタイムライン上でそこで上映されている「東京もぐら作戦」なる映画が話題になっていたからだ。製作/岩波映画製作所、企画/東京都下水道局、監督/広川朝次郎
1966年作成。急速に巨大化していく東京。そこで暮らし働く人々を支えるインフラ。電気、水道、ガス、そして下水道。地上の過密さに呼応するかのごとく過密な東京の地下の実体があきらかにされる。そして下水道工事は、インフラ整備の一連の流れの中で殿を勤めざるを得ない。他の管工事には無い特有の課題もある。配管の大きさ、勾配の必要性など。厳しい条件の中で様々な技術を駆使し下水道網を東京の地下に張り巡らしていく様が撮影されている。配管の敷設はもとより、ポンプ場と呼ぶ、一旦地下の深部に貯まった下水をポンプを使い揚水し、処理場へ送り込む施設。集まった下水から汚物を濾過し川に放流する下水処理場など、巨大施設や巨大地下空間が斬新なカメラワークによって映し出される。BGMも現代音楽だったりで時代を彷彿とさせる。地下空間で動く重機や掘削機を見ながら怪獣映画を思い出したのは、昭和の男の子の郷愁とロマンでご愛敬。普通の市民生活をおくっている人には、なかなか目にすることのできない異空間であったのではないだろうか。いい映画だった。

そしてなにより、水道インフラ施設での工事に従事している時に、この映画をみたことが私個人としては何かの符牒のようで興奮した。実際、下水処理場もポンプ場でも作業の経験はある。ある時などはライフジャッケトを着て作業をした。ゲリラ豪雨で下水の流量が増えた時の安全策だ。実際に大雨が降ってきて警報が鳴り、直ちに道具を置きっぱなしにして沈砂槽からハシゴを登って退出したら、またたくまに深くて真っ黒な汚水の急流が目の前に出現したこともある。

だから映画の中の作業が、人ごとには思えなかった。映画の中で働く作業員に親近感を感じた。

そして映画だけではない。「都市の無意識」会場で配布されていたパンフレットのテキストが興味深い。企画は3つのテーマに分かれている。

地下空間としての「アンダーグラウンド」 
都市の上層の景観としての「スカイライン」 
都市の表層の中に潜む多層性という意味の「パランプセスト」

かつて地下は死の世界、冥府として表象されてきた。科学によってそのイメージは変化していく。18世紀におこった産業革命により地下世界は冥府から、富を生み出す資源の宝庫へと転換を遂げる。石炭、鉄、銅などなど。

ルイス・マンフォードは大著『文明と技術』の中で、近代都市のインフラを支える技術のほとんどが鉱山業、すなわち「地下」に由来すると指摘しています。「鉱山から蒸気ポンプが生まれ、やがて蒸気機関が現われ、最後に蒸気機関車が生まれ、さらにその派生物をして蒸気船ができた。エスカレーターやエレベーターは鉱山から生まれ、それらは綿紡績の工場ではじめて応用されたが、坑道が都市の交通に応用されて地下鉄になった。同様に鉄道も鉱山から直接に由来したもの」なのだ、と。
こうして意外なことに都市と鉱山業が結びつきます。地下鉄、上下水道、電気、ガス、通信などのインフラが大都市の地下に張り巡らされている事実に普段意識を向けることはありませんが、まさに鉱山業で培われた技術が姿を変えて、都市の動脈や静脈と呼ぶべき下部構造を構成しているのです。地中に挑んだ鉱山業の遠い日の記憶と通じる都市の基底には、暗闇の中で苛酷な労働に従事した抗夫たちの呻吟さえもが浸み込んでいるはずです。あるいはまた、現代の都市風景を特徴づける建物の高層化を可能にしたエレヴェーターが、坑内への下降という本来の機能を反転させたものだと考えれば、都市の地上と地下は実は鏡像のような関係にあるといえるかもしれません。
(都市の無意識 パンフレット2頁より引用)

テキストのこの個所には大いに納得させられた。「東京もぐら作戦」の中で、残土を搬出するためにベルトコンベアーを使っていた。元々は鉱山や炭鉱で掘り出した資源を地上に搬出するための機構なのだ。それが下水道工事で転用されている以上にエスカレーターをなって普通に都市生活の中に組み込まれている。

私が長沢浄水場の現場で使用したコンプレッサーのブレイカーなども鉱山開発から生まれた物なのだろう。しかも基本的構造は全く同じだ。

この写真は日鉱鉱山記念館の展示。日立鉱山で銅の採掘に使われていたブレーカー類。大規模資本の鉱山ではそこで使用する機械類も自社で製作していた。日立鉱山から日立製作所が生まれる。

ここで前述した符牒がわかりはじめた。この数年とりくんでいる鉱山や炭鉱のフィールドワーク。そしてそこから生まれた足尾銅山、渡良瀬遊水地旧谷中村、古河庭園の三つの場所をつなぐイベント「Ashio Project」を計画実行しようとしているのも、単なる歴史趣味や廃墟に対するロマン主義では毛頭無く、田中正造をフクシマ以降の国の原子力行政を批判する為に担ぎ出そうという魂胆でもない。自分が、地の底の劣悪な環境の中で労働していた鉱山および炭鉱の抗夫達に、その労働身体の末裔としての土木建築業を生業としている私の労働身体が精神的同胞性を感じ取っていたのだということを。そして彼等の命がけの労働が、一方で鉱毒汚染を引き起こし、谷中村を消滅させ棄民を生み出したことについて、その同胞性は倫理的困惑を引き起こすのだ。「Ashio Project」は自分の労働身体を検証、批判することでもあったのだ。








2013年6月3日月曜日

移動すること。記憶を辿ること。風景を読み解くこと。その2北海道に行ってきた。

5月20日、北海道岩見沢の叔母が亡くなった。恵庭に住む弟より夕方訃報が届く。翌日幾つかの業務を片付け北海道に向かう。北海道に行くのは一年ぶり。だけど前回も葬儀だった。若い頃と違って旅行目的の飛行機には随分と乗っていない。
今回は羽田からではなく、茨城空港から飛ぶことにした。正直言ってANAやJALは高い。半額位で行けるのだからものは試しと、スカイマークで行くことに。西日暮里の自宅から羽田空港までの所要時間も一時間くらい。ならば自宅から車で高速で茨城に行くのと大して変わらない。午後3時位に出発。常磐自動車道を一時間走り、千代田石岡ICから一般道を20分ほどで茨城空港。

一般道を運転している私に、デジャブのような変な気持ちが生まれる。初めて走っている道のはずなのに、なぜかすでに訪れたことのある土地のように見える。未だに風景の見え方が、一週間前に観た佐々木友輔監督作品「土瀝青 asphalt」の影響下にあった。(土瀝青については前回のブログを参照されたし)佐々木が撮影したかもしれない、のどかな茨城の田園地帯に茨城空港はあった。茨城空港は軍民共用飛行場で航空自衛隊百里飛行場の民間施設のことを言う。空港に到着した時、戦闘機が轟音と共に離発着訓練をしていた。爆音のとぎれた合間に、雲雀が空高く囀りながら飛んで行くのが見られた。基地周辺に特有の緊張感とのどかさの同居した風景。


離陸。格安航空機、窮屈さを別段感じなかった。一時間ほどの飛行なら問題ない。窓から三陸の海岸を確認。種差海岸、やがて八戸。高校時代を過ごした八戸、三沢の街を空の上から眺める。自分が住んでいた時は、街を空からみたことはない。住まなくなってから見るようになった。とても遠くに感じる。小川原湖、六ヶ所村も見える。八戸の鮫のあたりから下北半島尻屋崎の手前まで砂浜が繋がっている。長い砂浜。浜に打ち寄せる波頭が白く浮かび上がって見えた。

着陸。きりっとヒンヤリした空気。北海道だ。JRで空港から恵庭へ移動。そこで弟と合流。弟の運転する車で岩見沢に向かう。水田地帯の道を行く。水を入れ始めた田では蛙の声。
夜の道路で見慣れぬ光る矢印の道路標識。弟に聞くと道路の端を指し示すもの。ひどい吹雪の時など、どこが車道かわからなくなる。その時その光る矢印をたよりに運転するのだそうだ。LEDと太陽光パネルの普及で光るタイプが増えたようだ。20年前もたしか矢印はあったと思うがあんなに光っていただろうか。動画は助手席の私が撮影。弟はさらに防雪柵について運転しながら説明してくれた。北海道ならではのインフラ設備。




葬儀会館に到着。通夜に参列。涙。翌日告別式。涙。恵庭に戻る。

途中JR岩見沢駅に立ち寄る。2009年グッドデザイン賞を受賞した駅。
駅舎建設にあたり寄付した人の名前と出身地が刻印された煉瓦。1階外壁

ガラスと古い鉄道レールが融合している

有明連絡歩道
連絡歩道内部


















              岩見沢駅舎は三つのブロックで、できている。有明交流プラザ。岩見沢駅。有明連絡歩道。交流プラザはホールやギャラリー、市役所のサービスセンター、店舗など。連絡道が立派なので通路以外の使用はあるのかと思い(例えば移動販売等の仮設店舗)東京に戻ってからだが、管理団体に問い合わせをしたところ、あくまでも通路としての使用のみだそうだ。東京近郊ターミナル駅のエキナカビジネスの興隆とはほど遠い地方の現状がある。プラザと連絡道の所有は岩見沢市。今のご時世、維持管理は大変だろう。

途中みつけた雪捨て場。まだ雪は溶けていない。重機で溝を掘っていた。太陽光が中まで入るようにしているのか?廻りの温度との差があるのだから、その差をエネルギーに変換できたらよいのだが。マイナスの方の差なのでエネルギー転用は難しい。川に流せば良いのではと弟に聞くと、氷の塊を大量に河川に流せば水門や堤防を破壊する事になるから無理だそうだ。しかも河川敷を雪捨て場にしている自治体が多いが河川敷は国交省の管理下。つまり地方自治体は国から河川敷を雪捨て場として借りている。期限付きで。5月いっぱいだそうだ。それまでに雪を撤去してしまわないと降雨量が増える時期となるので河川の治水管理がうまくいかなくなる恐れがあるのがその理由らしい。はたして現在、恵庭の雪はとけただろうか。



昼に恵庭に着。父の命日も間近なので日にちを繰り上げ、住職を呼んで法要をしてもらった。その後千歳空港へ。復路もスカイマークで茨城空港に降りた。19時半に帰宅。気温差10度くらいだろうか。生暖かい空気。


グローバリゼーションの進行の結果どうかわからないが、日本中どこにいっても同じようなファスト風土、均質な空間に出くわす。アウトレットモール、ファミリーレストラン、コンビニ、街道沿いの量販店。しかしそれぞれの土地が抱えている固有の問題も、また同時に目につくものだと今回の北海道行きで感じた。通信革命、流通のダイナミックスも地表から地理的差異を完全に消滅させることはできないのだろう。


2013年5月26日日曜日

移動すること。記憶を辿ること。風景を読み解くこと。その1「土瀝青 asphalt」を観てきた。

人間は自分自身の目で見た風景、耳で聞いた音、肌で感じた空気でできていると感じることがある。日々食べる食事や、文学や音楽の経験などによっても、その身体や情緒は構成されているのだが、食べ物は美味しかったり、小説は面白かったりするので、すんなり身体の内側、心の中に入り込んでしまい「私」という存在の輪郭をかき乱すことなく「私」の滋養となる。一方、風景は海は海だし、山は山でしかなく、どんなに名勝であったとしても数分で飽きてしまい、本物を見ても絵葉書をみているかのような錯覚におちいるかと思えば、通勤で通る道の夕暮れ時の景色の中に、自分の幼い頃の思い出が、時と場所を遙かに隔てているのにも関わらず突如としてフラッシュバックして途方にくれたりするのだ。そんな時は、かつて読んだ小説の一節を想起するよりも前後の脈絡が曖昧でいながら、周囲の匂いや音や空気までもが再現されて「ああ、懐かしい。」としみじみ感じ入ってしまう。そこで記憶を呼び覚ましたトリガーを探そうとした瞬間に、とうの記憶の情景が消えてしまい一体何で感じ入っていたのか分からなくなる。そんな自身の意志では制御できないのに関わらず、己の存在の基底を構成する要素が風景にはあるようだ。

5月12日に佐々木友輔監督の新作映画(2013年/186分)「土瀝青 asphalt」を観てきた。素晴らしくも奇妙な映画、なんとキャストが「道」なのだ。道。それも商店街の真ん中を通る道であり、水田地帯を通る農道だったり、郊外型大規模店が立ち並ぶ国道の道である。これじゃなんのことかわからないな。私自身も、その濃厚な映画体験からうまく抜け出せないで悶々としているので少しずつ整理するつもりで思い出して書いてみよう。

まず佐々木友輔は自転車に乗る人だ。乗ってる自転車はロードレーサータイプじゃないと思う。MTBか?意外とママチャリかもしれない。彼は自転車に乗ってビデオ撮影する。片手運転で撮影する。何を?彼が自転車に乗って走る茨城県の街を、郊外を、農村を、茨城県の様々な場所を。なぜ茨城県なのか。彼は東京芸大大学院に在籍し取手にいるらしい。2011年の刊行の「フローティング ヴュー」という書籍に書かれた経歴によればだ。ちなみに出身は神戸だそうだ。だから茨城県は彼の日常的な活動領域ということだ。そしてひたすら彼は自転車で走り回る。そしてひたすら片手運転で撮影する。しかもスタビライザーなんか使わない。だから手ぶればっかり。時には関東常総線に乗り列車で移動しながら撮影することもある。友人の運転する(推測)自動車に乗りながら助手席で撮影することもある。歩きながら撮影することがある。でも基本手持ちのようでやはり手ぶれ画面だ。

此処まで書いてもまだ分からないと思う。

その流れる手ぶれの風景の量がとてつもない。記憶が正しければ2010年後半くらいから始め、今年の早春にかけての二三年にわたって、茨城県内各地を走り回って撮影された風景が場所や季節、天候や昼夜を変えて繋ぎ合わさっていく。桜。田植え。夏祭り。駅前のイベント。コンビニ。五浦の岡倉天心の六角堂。利根川の河川敷。カラスウリ。カエル。葬式。雪。住宅街。巨大スーパーなどなど。それが3時間続く。それはさぞや退屈な映画だと思われるかもしれないが、それが全くの反対で3時間があっというまに過ぎてしまった。

ここで大きな映画の要素を書かねばならない。茨城各所の風景の映像に、小説を朗読する声が被さる。声の主は若い女性。朗読される作品は長塚節の「土」。現在の常総市出身の作家。この小説の内容の凄いこと。明治期の茨城県に住む貧農家族の悲惨な暮らしを写実的に描き出す小説。明治43年1910年に東京朝日新聞に連載されたもの。長塚節は正岡子規の門人。だから写生ですよ。冒頭はこんな感じです。
「烈しい西風が目に見えぬ大きな塊をごうつと打ちつけては又ごうつと打ちつけて皆痩せこけた落葉木の林を一日苛め通した。木の枝は時々ひうひうと悲痛の響きを立てて泣いた。」怖いですよね。思わず謝りたくなります。登場人物の会話は、茨城弁です。小説だから色々なことが起こります。お父さんはお百姓さんなんだけど現金を得るため土木工事のアルバイトに行ったり、働き者の奥さんが病気で死んで、奥さんの亡骸を納める棺桶の蓋が閉まるように首の骨が挫けるまで荒縄で縛り、娘が年頃になって村の若者からちょっかいを出されるのを父親が諫めたり、田植えがあり、夏祭りがあり、家を離れていたおじいさんが戻ってきたけど、リウマチで苦しんでいたり、家が燃えてしまったり、弟は頭に火傷をおったり、そらりゃもういろんなことがおこります。良いことは少ない。長塚節の土は未読の作品ですが、ヘビーな内容なのでたぶんこれからも読まないでしょう。しかしそんな小説ですがなぜか聞き入ってしまいました。

なんでだろう?

朗読の菊地裕貴の声の質、技術力。それもあるだろう。初めてテキストを読み上げるような初々しさと同時に、芯の強さを感じられる朗読。朗読の声が小説の重要人物である娘の「おつぎ」にオバーラップできなくもない。娘が家族想いでやさしくて、いいこなんだ。(まあこれは私のようなオヤジが受ける印象なんでしょうが。)

でもここでジェンダー論や、文学や、深層心理でこの映画を考えたくない。

やはり映画の構造に秘密がある。

声は幾つもの季節の移り変わりを語る。春が来て、夏が来て、秋になり、冬が訪れ、再び春が来る。四季の移り変わりを語っていく。それぞれの季節にシンクロするように桜の花が、田植えの様子が、街道沿いの紳士服量販店前で行われている夏祭が、夕立が、冬枯の河川敷の緑地帯が映し出される。そして季節の移り変わりは、さらに循環して物語の時間の経過を表している。物語は5年の歳月を語っていく。映像は5年分の季節の循環を映し出す。自転車に乗り移動する視線の映像が、物語の時間に同期する。空間の移動が、物語の流れとなる。
この映画は朗読と茨城各地の四季折々の風景の映像で、『土』と云う小説を映画化したものではない。
小説に描かれた土地の百年後を巡るロードムービーだ。貧困に喘ぐ家族が踏みしめていた土は、現在、瀝青(アスファルト)に覆われているかもしれない。巨大ショッピングモールが建っているのかもしれない。駅に向かう通勤通学路かもしれない。その場所は呪われているのか、それとも祝福されているのか。確かに映画の中では、竜巻被害で倒壊した家屋、放射性物質により汚染された立ち入り禁止区域が映し出されていた。岡倉天心の六角堂も、高萩の海岸もあの日の津波で大きな被害があった場所だ。ただ佐々木友輔の視点はそれらの事実を災厄としてのみ捉えているようには思えないのだ。反対に映画的愉悦すら感じる。語られてる家族の身体も、ペダルを漕ぐ佐々木祐輔の身体と同期し、風を切る疾走感と熱を帯びた心地よい疲労感に変容すると言ったら言い過ぎか。100年前の自然主義の小説がロードムービーに変化し、そこに映し出される風景が身体化されていく。「郊外」と一言で片付けられない固有性と磁場をもった場所に変わって行く。そう場所だ。佐々木祐輔は風景という言葉を回避しているようだ。映画のチラシに書いてあるコピーは以下のもの。

「風景」という概念を乗り越え、隠された基層の秩序を捉える〈場所映画〉

風景という語には、遠近法的パースペクティブを前提とした不動で安全な場所にいる視点を想起させるかもしれない。そして場所という語には、鑑賞者ではない、より能動的な視点をこめているのだろう。その視点は、旅や放浪といったロマンティックな言葉とは無縁だ。即物的な移動する視点だ。そして冷静さとユーモアも兼ね備えている。
時たま移動ではなく食事のシーンがある。自転車をおりて立ち寄ったラーメン屋であったり、年末年始実家に帰省して食べる餅であったり。そのなんと自然で平凡で日常的な光景であること。そこに佐々木友輔の現実に対する態度があるような気がする。同じく時折挟み込まれるスマートフォンの液晶画面やPCやテレビの画面などを使ったイタズラも愉快だ。

そしてこの作品に仕掛けられた映画的愉悦はエンドロールに集約される。この映画はドキュメンタリーではないので、5年間の歳月の物語を5年かけて撮影しているわけではない。同時期に撮影した異なる場所の映像を五つに振り分け5年の歳月を表現している。それを観る人は5年分の場所の移動として観てしまう。つまり場所が、道、が演技をしているのだ。エンドロールには一年目、夏、どこどこの通り。と駅前ストリートや、国道の名が撮影日と共に表示される。時折食事のシーン等で登場した人物名が現れるので、なおさら「道」の俳優性が高まるのだった。そしてそれらの名優達の名前を確認しながらあっという間に3時間の作品は終わったのだ。

長々と書いたがはたしてこの作品に追いつけたか。いや追いつけまい。しかし機会があれば又みたい映画だ。


























2013年5月2日木曜日

町歩きの心得。薄い街とカラミ煉瓦。

「僕が考察するに、この世界は無数の薄板の重なりによって構成されている。それらはきわめて薄く、だから、薄板面にたいして直角に進む者には見えないけれど、横を向いたら見える。しかしその角度は非常に微妙な点に限定されているから、よこの方をみたというだけでは、薄板の実在をたしかめることはできない。そして現実はわれわれが知っているとおり、何の奇もないものであるが、薄板界はいわば夢の世界であって、いったんその中へ入りこむならどんなことでも行われ得る。ぼくの月世界旅行はこの薄板界という別箇の存在を通路とするから、恐ろしい闇を片側にともなって輝いているコペルニクス山も、タイコ山も、虹の入江も、雲の海もすぐお隣である。──いったいここにきみとぼくという二人が、この限定された時間と空間の中にいることが事実であるなら、それと同様、同じきみとぼくが、また別な時間と空間の中に存在することも可能ではないか──若しそれが夢であるなら、いまここに、このわれわれが歩いているというのもひとしく夢でなければならない・・・・・・」
稲垣足穂「タルホと虚空」より引用。

現実世界の時計の針が刻む秒と秒とのあいだに、ある不思議な黒板が挟まっている。そののもはたいそう薄い。肉眼ではみとめることができない。けれどもそれらの拡がりは広大無辺である。
中略
肉眼で見えぬものを何によってみとめるか?一口に云うなら、それは、まっすぐに進む者には見えない、けれども、よこを向いた者には見られると云う条件下にある。
中略
──吾々が道を歩いている時、飾窓や音楽や、人や、自然物に奇をひかれてひょいと首をまげさせられる。これは、実は、春の野辺に立つ糸遊のごとくに、デリケートな薄板が、それらの物象を借りての誘惑なのである。若しもこんな時、吾々の視線が適当な角度に合致したならば、吾々はその音楽なり容貌なり花なりを媒介として、はても知られぬ美の王国へはいることをゆるされるはずであるが、おおむねの場合、かおをまげる運動がかすめた切点によってのみ黒板を瞥見する。だから、その奥に無数に重なり合って存在している薄板界など全く気づかないですぎてしまう。そうかと云って、先にも述べたように、この個別な存在を全然知らないわけでもない。よく脇見をする人がある。これなどは、黒板がちらッとかれの網膜上をかすめただけでもすでに異常な感覚が与えられるので、この瞬間の何云うともない夢心地を無意識裡に求めているのだ、と説明される。
稲垣足穂「童話の天文学者」より引用。

20数年ぶりに稲垣足穂を読み返している。高校生の頃、一千一秒物語に出会ってから20代の半ばまで足穂が愛読書だった。ところがある時からぱったりと読まなくなった。青春文学ではないが、ある年齢じゃないと受け付けない作家じゃなかろうか。ではなぜ今タルホを読んでいるのか?先に引用した薄板界の存在が、その理由とでも云える事態に遭遇したからである。

題して、「果たして緩(カラミ)煉瓦はそこに有ったか。」

事の始まりは一冊の本、「日本の地霊ゲニウス・ロキ」鈴木博之著・講談社現代新書読んだことから。鈴木氏は北区は王子神社の境内の敷石に見たこともない一風変わった煉瓦が使われているのを見つける。後日その煉瓦は銅山で銅を精錬する際に発生するスラグ(滓)を再利用した煉瓦だと云うことが判明。足尾銅山の煉瓦ではないかと鈴木氏は推測する。

遅れてきた近代遺産探検家(自称)として、Ashio Projectのメンバーとして、足尾銅山と云うキーワードに、私は反応しないではいられない。しかもブツは近所の王子ときた。早速、田端駅から京浜東北線に乗り、王子神社に行ってみた。
(Ashio Projectに関してはhttp://fujioh3776.blogspot.jp/2013/04/ashio-project.html

境内の敷石をくまなく見て回るのだが、それらしきブツにはなかなか出くわさない。もしかしたらコレなのかな、というものはあった。それがこの写真。


実はこの写真後日撮影したもの。はじめて王子神社に探しに行った時は天気は曇り。それは周囲の敷石とはことなる質感であったが、やや赤みのある黒い石のように見えた。私には煉瓦とはわからず、写真を撮らなかった。それというのも足尾で見た煉瓦の印象と異なっていたからである。これが足尾のスラグを再利用した煉瓦。王子のものより目が荒く、黒みが強く、なんと言っても大きさが小さい。
足尾銅山 愛宕下社宅跡地にのこる防火壁
その日は、午後から夜間にかけて現場の仕事が入っていたので、自分が誤った場所を探しているのかと思いながらも、調査を中断しその場をあとにした。再び京浜東北線に乗り田端駅で下車。北口改札を出て旧田端大橋を渡り東田端の商店街を抜けて自宅に向かった。その道は田端駅を利用する際に必ず通る道であり、私は数え切れないくらいの回数、そこを歩いている。もちろんその日の朝も歩いている。なのにだ。わたしはある建物と建物との間の、1メートルくらいの空隙を前に訳も分からずハッとして、急に立ち止まった。自分で立ち止まっておきながら、自分の行為の結果に驚いた。そこに先程、王子神社でみた例のブツがいくつも転がっているではないか。これがその写真。


半分に割れているものもある。流体的な質感がある。

スラグ煉瓦に違いないとその時確信した。王子に戻って写真を撮ろうとも思ったが、時間の余裕がなかったのであきらめ後日行くことに。それが最初に掲載した写真。それにしても不思議だ。朝駅に向かうときには全く気づかず、王子でも確信が持てないまま戻ってきたのに、よく視界の片隅のその存在に気がついたものだ。しかも王子神社のものは地面に埋まっているのだから、全体像が掴めてないのにもかかわらず。

探している時は、見つからない。見つかるときは微かな気配でもぱっとわかる。失せもの、捜しものの法則だが、人間の無意識領域における視覚情報の走査能力は凄いものがある。まさしく足穂の「薄板界」だ。脇見をしながら歩く技術を、フィールドワーカーは習得しなければならない。

一週間後に休みが取れたので、再び王子神社へ。その後、鈴木氏の著作より新橋住友ビルにエントランス廻りに煉瓦が使われているとの情報から新橋に移動。住友ビルへ。




別子銅山・四阪島精錬所で作られた煉瓦。緩(カラミ)煉瓦という名称を持つことが分かった。スケールであたると田端、王子神社の緩煉瓦と同じ大きさであった。縦45㎝×横22㎝×厚み15cm。田端、王子とも四阪島で生産されたものか?ここでまた謎が生まれた。


いったんこれだけの緩煉瓦を認識すると緩煉瓦レーダーの様なものが私の身体に装着されたようで、更に一週間後、Ashio Projectとは別の作品制作の為北区の隅田川沿いをリサーチしていたところまたもや偶然に発見してしまった。まずはこんな形で。

真ん中の物体が緩煉瓦。


同じ敷地内には、他にも緩煉瓦がいくつも無造作に転がっていた。

この日は川をテーマにしたダンス作品の為、隅田川をリサーチしていたのだが緩煉瓦レーダーは無意識の領域でしっかり稼働していたようだ。やはり脇見をしたときに発見。

更にネット上で下記の情報にヒットする。
日産化学工業の王子工場(日本最初の化学肥料を製造する会社。王子工場は現在の豊島5丁目団地がある場所あった。)で、日露戦争勃発による銅の軍需が増大した1904、1905年頃に、硫酸製造の過程のなかで生まれた物質から銅を精錬し、その際生じたスラグをリサイクルして緩煉瓦を製造したとある。足立区では、土留め、塀、商店のシートの風よけの重し、車よけ等に使われたとも。

だんだん分かってきた様な気がする。王子神社、北区隅田川沿い、田端の緩煉瓦は日産科学工業産なのではなかろうか。四阪島のものと大きさが同じなのは固める容器の規格が同じだったのだろう。
そして日露戦争が近代史においては重要なキーワードであることを改めて実感。

足穂の薄板界、薄い街はファンタシューム化合物が結晶化した幻想と詩的情趣に溢れた世界なのだろう。その世界に今の私の心は、もうときめくことはないが、脇見歩行の必要は今もなお、大いに賛同する。脇見歩行という身体行為によって遭遇する小さな事物が、やがて連関をなし、現在の日常世界に通じる歴史がだんだんと見えてくることが面白い。

──そこはいったいどこなんです。
──どこでも!
──どこでもですって?
──そうです。この街は地球上に到る所にあります。ただ目下のところたいへん薄いだけです。だんだん濃くなってきましょう。
稲垣足穂「薄い街」より引用