5月12日に佐々木友輔監督の新作映画(2013年/186分)「土瀝青 asphalt」を観てきた。素晴らしくも奇妙な映画、なんとキャストが「道」なのだ。道。それも商店街の真ん中を通る道であり、水田地帯を通る農道だったり、郊外型大規模店が立ち並ぶ国道の道である。これじゃなんのことかわからないな。私自身も、その濃厚な映画体験からうまく抜け出せないで悶々としているので少しずつ整理するつもりで思い出して書いてみよう。
まず佐々木友輔は自転車に乗る人だ。乗ってる自転車はロードレーサータイプじゃないと思う。MTBか?意外とママチャリかもしれない。彼は自転車に乗ってビデオ撮影する。片手運転で撮影する。何を?彼が自転車に乗って走る茨城県の街を、郊外を、農村を、茨城県の様々な場所を。なぜ茨城県なのか。彼は東京芸大大学院に在籍し取手にいるらしい。2011年の刊行の「フローティング ヴュー」という書籍に書かれた経歴によればだ。ちなみに出身は神戸だそうだ。だから茨城県は彼の日常的な活動領域ということだ。そしてひたすら彼は自転車で走り回る。そしてひたすら片手運転で撮影する。しかもスタビライザーなんか使わない。だから手ぶればっかり。時には関東常総線に乗り列車で移動しながら撮影することもある。友人の運転する(推測)自動車に乗りながら助手席で撮影することもある。歩きながら撮影することがある。でも基本手持ちのようでやはり手ぶれ画面だ。
此処まで書いてもまだ分からないと思う。
その流れる手ぶれの風景の量がとてつもない。記憶が正しければ2010年後半くらいから始め、今年の早春にかけての二三年にわたって、茨城県内各地を走り回って撮影された風景が場所や季節、天候や昼夜を変えて繋ぎ合わさっていく。桜。田植え。夏祭り。駅前のイベント。コンビニ。五浦の岡倉天心の六角堂。利根川の河川敷。カラスウリ。カエル。葬式。雪。住宅街。巨大スーパーなどなど。それが3時間続く。それはさぞや退屈な映画だと思われるかもしれないが、それが全くの反対で3時間があっというまに過ぎてしまった。
ここで大きな映画の要素を書かねばならない。茨城各所の風景の映像に、小説を朗読する声が被さる。声の主は若い女性。朗読される作品は長塚節の「土」。現在の常総市出身の作家。この小説の内容の凄いこと。明治期の茨城県に住む貧農家族の悲惨な暮らしを写実的に描き出す小説。明治43年1910年に東京朝日新聞に連載されたもの。長塚節は正岡子規の門人。だから写生ですよ。冒頭はこんな感じです。
「烈しい西風が目に見えぬ大きな塊をごうつと打ちつけては又ごうつと打ちつけて皆痩せこけた落葉木の林を一日苛め通した。木の枝は時々ひうひうと悲痛の響きを立てて泣いた。」怖いですよね。思わず謝りたくなります。登場人物の会話は、茨城弁です。小説だから色々なことが起こります。お父さんはお百姓さんなんだけど現金を得るため土木工事のアルバイトに行ったり、働き者の奥さんが病気で死んで、奥さんの亡骸を納める棺桶の蓋が閉まるように首の骨が挫けるまで荒縄で縛り、娘が年頃になって村の若者からちょっかいを出されるのを父親が諫めたり、田植えがあり、夏祭りがあり、家を離れていたおじいさんが戻ってきたけど、リウマチで苦しんでいたり、家が燃えてしまったり、弟は頭に火傷をおったり、そらりゃもういろんなことがおこります。良いことは少ない。長塚節の土は未読の作品ですが、ヘビーな内容なのでたぶんこれからも読まないでしょう。しかしそんな小説ですがなぜか聞き入ってしまいました。
なんでだろう?
朗読の菊地裕貴の声の質、技術力。それもあるだろう。初めてテキストを読み上げるような初々しさと同時に、芯の強さを感じられる朗読。朗読の声が小説の重要人物である娘の「おつぎ」にオバーラップできなくもない。娘が家族想いでやさしくて、いいこなんだ。(まあこれは私のようなオヤジが受ける印象なんでしょうが。)
でもここでジェンダー論や、文学や、深層心理でこの映画を考えたくない。
やはり映画の構造に秘密がある。
声は幾つもの季節の移り変わりを語る。春が来て、夏が来て、秋になり、冬が訪れ、再び春が来る。四季の移り変わりを語っていく。それぞれの季節にシンクロするように桜の花が、田植えの様子が、街道沿いの紳士服量販店前で行われている夏祭が、夕立が、冬枯の河川敷の緑地帯が映し出される。そして季節の移り変わりは、さらに循環して物語の時間の経過を表している。物語は5年の歳月を語っていく。映像は5年分の季節の循環を映し出す。自転車に乗り移動する視線の映像が、物語の時間に同期する。空間の移動が、物語の流れとなる。
この映画は朗読と茨城各地の四季折々の風景の映像で、『土』と云う小説を映画化したものではない。
小説に描かれた土地の百年後を巡るロードムービーだ。貧困に喘ぐ家族が踏みしめていた土は、現在、瀝青(アスファルト)に覆われているかもしれない。巨大ショッピングモールが建っているのかもしれない。駅に向かう通勤通学路かもしれない。その場所は呪われているのか、それとも祝福されているのか。確かに映画の中では、竜巻被害で倒壊した家屋、放射性物質により汚染された立ち入り禁止区域が映し出されていた。岡倉天心の六角堂も、高萩の海岸もあの日の津波で大きな被害があった場所だ。ただ佐々木友輔の視点はそれらの事実を災厄としてのみ捉えているようには思えないのだ。反対に映画的愉悦すら感じる。語られてる家族の身体も、ペダルを漕ぐ佐々木祐輔の身体と同期し、風を切る疾走感と熱を帯びた心地よい疲労感に変容すると言ったら言い過ぎか。100年前の自然主義の小説がロードムービーに変化し、そこに映し出される風景が身体化されていく。「郊外」と一言で片付けられない固有性と磁場をもった場所に変わって行く。そう場所だ。佐々木祐輔は風景という言葉を回避しているようだ。映画のチラシに書いてあるコピーは以下のもの。
「風景」という概念を乗り越え、隠された基層の秩序を捉える〈場所映画〉
風景という語には、遠近法的パースペクティブを前提とした不動で安全な場所にいる視点を想起させるかもしれない。そして場所という語には、鑑賞者ではない、より能動的な視点をこめているのだろう。その視点は、旅や放浪といったロマンティックな言葉とは無縁だ。即物的な移動する視点だ。そして冷静さとユーモアも兼ね備えている。
時たま移動ではなく食事のシーンがある。自転車をおりて立ち寄ったラーメン屋であったり、年末年始実家に帰省して食べる餅であったり。そのなんと自然で平凡で日常的な光景であること。そこに佐々木友輔の現実に対する態度があるような気がする。同じく時折挟み込まれるスマートフォンの液晶画面やPCやテレビの画面などを使ったイタズラも愉快だ。
そしてこの作品に仕掛けられた映画的愉悦はエンドロールに集約される。この映画はドキュメンタリーではないので、5年間の歳月の物語を5年かけて撮影しているわけではない。同時期に撮影した異なる場所の映像を五つに振り分け5年の歳月を表現している。それを観る人は5年分の場所の移動として観てしまう。つまり場所が、道、が演技をしているのだ。エンドロールには一年目、夏、どこどこの通り。と駅前ストリートや、国道の名が撮影日と共に表示される。時折食事のシーン等で登場した人物名が現れるので、なおさら「道」の俳優性が高まるのだった。そしてそれらの名優達の名前を確認しながらあっという間に3時間の作品は終わったのだ。
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