2013年5月2日木曜日

町歩きの心得。薄い街とカラミ煉瓦。

「僕が考察するに、この世界は無数の薄板の重なりによって構成されている。それらはきわめて薄く、だから、薄板面にたいして直角に進む者には見えないけれど、横を向いたら見える。しかしその角度は非常に微妙な点に限定されているから、よこの方をみたというだけでは、薄板の実在をたしかめることはできない。そして現実はわれわれが知っているとおり、何の奇もないものであるが、薄板界はいわば夢の世界であって、いったんその中へ入りこむならどんなことでも行われ得る。ぼくの月世界旅行はこの薄板界という別箇の存在を通路とするから、恐ろしい闇を片側にともなって輝いているコペルニクス山も、タイコ山も、虹の入江も、雲の海もすぐお隣である。──いったいここにきみとぼくという二人が、この限定された時間と空間の中にいることが事実であるなら、それと同様、同じきみとぼくが、また別な時間と空間の中に存在することも可能ではないか──若しそれが夢であるなら、いまここに、このわれわれが歩いているというのもひとしく夢でなければならない・・・・・・」
稲垣足穂「タルホと虚空」より引用。

現実世界の時計の針が刻む秒と秒とのあいだに、ある不思議な黒板が挟まっている。そののもはたいそう薄い。肉眼ではみとめることができない。けれどもそれらの拡がりは広大無辺である。
中略
肉眼で見えぬものを何によってみとめるか?一口に云うなら、それは、まっすぐに進む者には見えない、けれども、よこを向いた者には見られると云う条件下にある。
中略
──吾々が道を歩いている時、飾窓や音楽や、人や、自然物に奇をひかれてひょいと首をまげさせられる。これは、実は、春の野辺に立つ糸遊のごとくに、デリケートな薄板が、それらの物象を借りての誘惑なのである。若しもこんな時、吾々の視線が適当な角度に合致したならば、吾々はその音楽なり容貌なり花なりを媒介として、はても知られぬ美の王国へはいることをゆるされるはずであるが、おおむねの場合、かおをまげる運動がかすめた切点によってのみ黒板を瞥見する。だから、その奥に無数に重なり合って存在している薄板界など全く気づかないですぎてしまう。そうかと云って、先にも述べたように、この個別な存在を全然知らないわけでもない。よく脇見をする人がある。これなどは、黒板がちらッとかれの網膜上をかすめただけでもすでに異常な感覚が与えられるので、この瞬間の何云うともない夢心地を無意識裡に求めているのだ、と説明される。
稲垣足穂「童話の天文学者」より引用。

20数年ぶりに稲垣足穂を読み返している。高校生の頃、一千一秒物語に出会ってから20代の半ばまで足穂が愛読書だった。ところがある時からぱったりと読まなくなった。青春文学ではないが、ある年齢じゃないと受け付けない作家じゃなかろうか。ではなぜ今タルホを読んでいるのか?先に引用した薄板界の存在が、その理由とでも云える事態に遭遇したからである。

題して、「果たして緩(カラミ)煉瓦はそこに有ったか。」

事の始まりは一冊の本、「日本の地霊ゲニウス・ロキ」鈴木博之著・講談社現代新書読んだことから。鈴木氏は北区は王子神社の境内の敷石に見たこともない一風変わった煉瓦が使われているのを見つける。後日その煉瓦は銅山で銅を精錬する際に発生するスラグ(滓)を再利用した煉瓦だと云うことが判明。足尾銅山の煉瓦ではないかと鈴木氏は推測する。

遅れてきた近代遺産探検家(自称)として、Ashio Projectのメンバーとして、足尾銅山と云うキーワードに、私は反応しないではいられない。しかもブツは近所の王子ときた。早速、田端駅から京浜東北線に乗り、王子神社に行ってみた。
(Ashio Projectに関してはhttp://fujioh3776.blogspot.jp/2013/04/ashio-project.html

境内の敷石をくまなく見て回るのだが、それらしきブツにはなかなか出くわさない。もしかしたらコレなのかな、というものはあった。それがこの写真。


実はこの写真後日撮影したもの。はじめて王子神社に探しに行った時は天気は曇り。それは周囲の敷石とはことなる質感であったが、やや赤みのある黒い石のように見えた。私には煉瓦とはわからず、写真を撮らなかった。それというのも足尾で見た煉瓦の印象と異なっていたからである。これが足尾のスラグを再利用した煉瓦。王子のものより目が荒く、黒みが強く、なんと言っても大きさが小さい。
足尾銅山 愛宕下社宅跡地にのこる防火壁
その日は、午後から夜間にかけて現場の仕事が入っていたので、自分が誤った場所を探しているのかと思いながらも、調査を中断しその場をあとにした。再び京浜東北線に乗り田端駅で下車。北口改札を出て旧田端大橋を渡り東田端の商店街を抜けて自宅に向かった。その道は田端駅を利用する際に必ず通る道であり、私は数え切れないくらいの回数、そこを歩いている。もちろんその日の朝も歩いている。なのにだ。わたしはある建物と建物との間の、1メートルくらいの空隙を前に訳も分からずハッとして、急に立ち止まった。自分で立ち止まっておきながら、自分の行為の結果に驚いた。そこに先程、王子神社でみた例のブツがいくつも転がっているではないか。これがその写真。


半分に割れているものもある。流体的な質感がある。

スラグ煉瓦に違いないとその時確信した。王子に戻って写真を撮ろうとも思ったが、時間の余裕がなかったのであきらめ後日行くことに。それが最初に掲載した写真。それにしても不思議だ。朝駅に向かうときには全く気づかず、王子でも確信が持てないまま戻ってきたのに、よく視界の片隅のその存在に気がついたものだ。しかも王子神社のものは地面に埋まっているのだから、全体像が掴めてないのにもかかわらず。

探している時は、見つからない。見つかるときは微かな気配でもぱっとわかる。失せもの、捜しものの法則だが、人間の無意識領域における視覚情報の走査能力は凄いものがある。まさしく足穂の「薄板界」だ。脇見をしながら歩く技術を、フィールドワーカーは習得しなければならない。

一週間後に休みが取れたので、再び王子神社へ。その後、鈴木氏の著作より新橋住友ビルにエントランス廻りに煉瓦が使われているとの情報から新橋に移動。住友ビルへ。




別子銅山・四阪島精錬所で作られた煉瓦。緩(カラミ)煉瓦という名称を持つことが分かった。スケールであたると田端、王子神社の緩煉瓦と同じ大きさであった。縦45㎝×横22㎝×厚み15cm。田端、王子とも四阪島で生産されたものか?ここでまた謎が生まれた。


いったんこれだけの緩煉瓦を認識すると緩煉瓦レーダーの様なものが私の身体に装着されたようで、更に一週間後、Ashio Projectとは別の作品制作の為北区の隅田川沿いをリサーチしていたところまたもや偶然に発見してしまった。まずはこんな形で。

真ん中の物体が緩煉瓦。


同じ敷地内には、他にも緩煉瓦がいくつも無造作に転がっていた。

この日は川をテーマにしたダンス作品の為、隅田川をリサーチしていたのだが緩煉瓦レーダーは無意識の領域でしっかり稼働していたようだ。やはり脇見をしたときに発見。

更にネット上で下記の情報にヒットする。
日産化学工業の王子工場(日本最初の化学肥料を製造する会社。王子工場は現在の豊島5丁目団地がある場所あった。)で、日露戦争勃発による銅の軍需が増大した1904、1905年頃に、硫酸製造の過程のなかで生まれた物質から銅を精錬し、その際生じたスラグをリサイクルして緩煉瓦を製造したとある。足立区では、土留め、塀、商店のシートの風よけの重し、車よけ等に使われたとも。

だんだん分かってきた様な気がする。王子神社、北区隅田川沿い、田端の緩煉瓦は日産科学工業産なのではなかろうか。四阪島のものと大きさが同じなのは固める容器の規格が同じだったのだろう。
そして日露戦争が近代史においては重要なキーワードであることを改めて実感。

足穂の薄板界、薄い街はファンタシューム化合物が結晶化した幻想と詩的情趣に溢れた世界なのだろう。その世界に今の私の心は、もうときめくことはないが、脇見歩行の必要は今もなお、大いに賛同する。脇見歩行という身体行為によって遭遇する小さな事物が、やがて連関をなし、現在の日常世界に通じる歴史がだんだんと見えてくることが面白い。

──そこはいったいどこなんです。
──どこでも!
──どこでもですって?
──そうです。この街は地球上に到る所にあります。ただ目下のところたいへん薄いだけです。だんだん濃くなってきましょう。
稲垣足穂「薄い街」より引用













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