2013年4月16日火曜日

Ashio Project

場所。歴史。風景。廃墟。近代化。自然。共同体。建築。都市。テクノロジー。明治。政治。文化。西洋と日本。古河市兵衛。渋沢栄一。田中正造。ジョサイア・コンドル。そして名も無き多くの鉱山労働者。農民。etc.etc....
様々なキーワードを心の中で反芻しながら、折を見てたびたび訪れている足尾銅山、渡良瀬遊水地旧谷中村、そして日々の散歩コースの古河庭園、この三つの場所をつなぐ行為を考えていた。複雑にからみあった歴史。それぞれの場所の強烈な磁場。フィールドワークというほど大層なものはやっていないが、訪れる度に新しい発見がある場所。風景の知をいかに身体で読み解くか。思いは膨らんでいく。

足尾銅山2009年8月撮影
渡良瀬遊水地・旧谷中村跡地2012年12月撮影
古河邸2012年12月撮影
去年の秋、ダンサーでありアーティストの村田いづ実さん、同じくアーティストの矢尾伸哉さんを巻き込んでAshio Projectを立ち上げた。まずは茶道の師範でもある村田さんによる三つの場所での野点で、様々な人にお茶とともに、あの風景を体験してもらおうという企画が生まれた。

風景の知を身体で読み解くために。
場所を言祝ぎ、他者を歓待するために。


そして野点を、プロジェクトのひとつの方法論に決めたことより、岡倉天心の「茶の本」を参考資料として読む。足尾鉱山鉱毒事件の経緯、谷中村(現渡良瀬遊水地)廃村の悲惨さ、田中正造の壮絶な生き様は、岡倉天心が「茶の本」を執筆する動機と実は深くつながっていることを知る。キーワードは日露戦争。



自分に存在する偉大なものの小を感ずることができない人は、他人にある小さなものの偉大さを見逃しやすい。一般の西洋人は茶の湯を見て、東洋の稚気を構成する例の無数にある奇癖の一例にすぎないと、心ひそかに思っているだろう。西洋人は日本が平和な文芸に耽っていた間は、野蛮国と考えていたものである。ところが日本が満州の戦場に大虐殺を行い始めてからは文明国と呼んでいる。最近武士道──我が兵士に喜んで身を捨てさせる死の術──については盛んに論評されて来たが、茶道については、この道が我々の生の術を多く説いているにも拘わらず、殆ど関心が持たれていない。もし文明ということが、血腥い戦争の栄誉に依存せねばならぬというならば、我々はあくまでも野蛮人に甘んじよう。我々は母国の芸術と理想に対して、当然の尊厳が払われる時季がくるのを喜んで待つとしよう。──「茶の本」ちくま学芸文庫 櫻庭信之訳 9頁より引用。

多くの公害被害を出し、谷中村を廃村に追い込んでもなお操業を続ける足尾銅山。当時の世界情勢の中で日本が置かれている状況。銅の輸出による外貨獲得。その資金を元にした軍備の増強。急速な近代化による光と闇。それらの事象の複雑な絡み具合は、例えば、以下のリンク先の小出五郎氏の論考が示してくれている。
http://www.sonpo.or.jp/archive/publish/bousai/jiho/pdf/no_244/yj24428.pdf

田中正造、岡倉天心、二人には接点はない。ただ同時代に生きた人物ということだけである。しかし1901年(明治34年)の田中正造の天皇への直訴から、1907年(明治40年)の谷中村廃村にいたるまでの間に日露戦争(1904〜1905年)はもとより、岡倉天心の主な著作が欧米で出版された時期も重なる。そしてなにより象徴的なのは、正造は1913年(大正2年)9月2日、天心は同年9月4日に没している。わずか2日違い。両者の死は明治維新から始まった「日本というプロジェクト」が方向転換した指標のようにも感じられるのだ。いや方向転換はなかったのだろう。正造、天心が思い描いた日本が消失しただけなのかもしれない。

1916年(大正5年)の統計によると足尾には38,428人の住民がいた。これは当時の宇都宮の人口に次ぐ数字である。翌1917年(大正6年)谷中村はとうとう無人の地となる。同年ジョサイア・コンドルの設計により古河財閥三代目当主古河虎之助邸宅が完成。時代は下って1973年(昭和48年)足尾銅山操業停止。その後2006年の統計では足尾の人口は3220人。100年たった谷中村・渡良瀬遊水地は、多種多様な動植物・鳥類が生息する生態学的に貴重な場所となり、去年ラムサール条約登録湿地となる。

先日、村田いづ実さん、矢尾伸哉さんと日暮里のルノアールでミーティングをしたのち、谷中の日本美術院跡地を三人で訪問。

Ashio Projectは次は茨城の五浦を目指すだろう。天心の六角堂を前に「茶の本」をもとにしたパフォーマンスをすることになるだろう


谷中日本美術院跡にて 矢尾伸哉撮影