2013年5月26日日曜日

移動すること。記憶を辿ること。風景を読み解くこと。その1「土瀝青 asphalt」を観てきた。

人間は自分自身の目で見た風景、耳で聞いた音、肌で感じた空気でできていると感じることがある。日々食べる食事や、文学や音楽の経験などによっても、その身体や情緒は構成されているのだが、食べ物は美味しかったり、小説は面白かったりするので、すんなり身体の内側、心の中に入り込んでしまい「私」という存在の輪郭をかき乱すことなく「私」の滋養となる。一方、風景は海は海だし、山は山でしかなく、どんなに名勝であったとしても数分で飽きてしまい、本物を見ても絵葉書をみているかのような錯覚におちいるかと思えば、通勤で通る道の夕暮れ時の景色の中に、自分の幼い頃の思い出が、時と場所を遙かに隔てているのにも関わらず突如としてフラッシュバックして途方にくれたりするのだ。そんな時は、かつて読んだ小説の一節を想起するよりも前後の脈絡が曖昧でいながら、周囲の匂いや音や空気までもが再現されて「ああ、懐かしい。」としみじみ感じ入ってしまう。そこで記憶を呼び覚ましたトリガーを探そうとした瞬間に、とうの記憶の情景が消えてしまい一体何で感じ入っていたのか分からなくなる。そんな自身の意志では制御できないのに関わらず、己の存在の基底を構成する要素が風景にはあるようだ。

5月12日に佐々木友輔監督の新作映画(2013年/186分)「土瀝青 asphalt」を観てきた。素晴らしくも奇妙な映画、なんとキャストが「道」なのだ。道。それも商店街の真ん中を通る道であり、水田地帯を通る農道だったり、郊外型大規模店が立ち並ぶ国道の道である。これじゃなんのことかわからないな。私自身も、その濃厚な映画体験からうまく抜け出せないで悶々としているので少しずつ整理するつもりで思い出して書いてみよう。

まず佐々木友輔は自転車に乗る人だ。乗ってる自転車はロードレーサータイプじゃないと思う。MTBか?意外とママチャリかもしれない。彼は自転車に乗ってビデオ撮影する。片手運転で撮影する。何を?彼が自転車に乗って走る茨城県の街を、郊外を、農村を、茨城県の様々な場所を。なぜ茨城県なのか。彼は東京芸大大学院に在籍し取手にいるらしい。2011年の刊行の「フローティング ヴュー」という書籍に書かれた経歴によればだ。ちなみに出身は神戸だそうだ。だから茨城県は彼の日常的な活動領域ということだ。そしてひたすら彼は自転車で走り回る。そしてひたすら片手運転で撮影する。しかもスタビライザーなんか使わない。だから手ぶればっかり。時には関東常総線に乗り列車で移動しながら撮影することもある。友人の運転する(推測)自動車に乗りながら助手席で撮影することもある。歩きながら撮影することがある。でも基本手持ちのようでやはり手ぶれ画面だ。

此処まで書いてもまだ分からないと思う。

その流れる手ぶれの風景の量がとてつもない。記憶が正しければ2010年後半くらいから始め、今年の早春にかけての二三年にわたって、茨城県内各地を走り回って撮影された風景が場所や季節、天候や昼夜を変えて繋ぎ合わさっていく。桜。田植え。夏祭り。駅前のイベント。コンビニ。五浦の岡倉天心の六角堂。利根川の河川敷。カラスウリ。カエル。葬式。雪。住宅街。巨大スーパーなどなど。それが3時間続く。それはさぞや退屈な映画だと思われるかもしれないが、それが全くの反対で3時間があっというまに過ぎてしまった。

ここで大きな映画の要素を書かねばならない。茨城各所の風景の映像に、小説を朗読する声が被さる。声の主は若い女性。朗読される作品は長塚節の「土」。現在の常総市出身の作家。この小説の内容の凄いこと。明治期の茨城県に住む貧農家族の悲惨な暮らしを写実的に描き出す小説。明治43年1910年に東京朝日新聞に連載されたもの。長塚節は正岡子規の門人。だから写生ですよ。冒頭はこんな感じです。
「烈しい西風が目に見えぬ大きな塊をごうつと打ちつけては又ごうつと打ちつけて皆痩せこけた落葉木の林を一日苛め通した。木の枝は時々ひうひうと悲痛の響きを立てて泣いた。」怖いですよね。思わず謝りたくなります。登場人物の会話は、茨城弁です。小説だから色々なことが起こります。お父さんはお百姓さんなんだけど現金を得るため土木工事のアルバイトに行ったり、働き者の奥さんが病気で死んで、奥さんの亡骸を納める棺桶の蓋が閉まるように首の骨が挫けるまで荒縄で縛り、娘が年頃になって村の若者からちょっかいを出されるのを父親が諫めたり、田植えがあり、夏祭りがあり、家を離れていたおじいさんが戻ってきたけど、リウマチで苦しんでいたり、家が燃えてしまったり、弟は頭に火傷をおったり、そらりゃもういろんなことがおこります。良いことは少ない。長塚節の土は未読の作品ですが、ヘビーな内容なのでたぶんこれからも読まないでしょう。しかしそんな小説ですがなぜか聞き入ってしまいました。

なんでだろう?

朗読の菊地裕貴の声の質、技術力。それもあるだろう。初めてテキストを読み上げるような初々しさと同時に、芯の強さを感じられる朗読。朗読の声が小説の重要人物である娘の「おつぎ」にオバーラップできなくもない。娘が家族想いでやさしくて、いいこなんだ。(まあこれは私のようなオヤジが受ける印象なんでしょうが。)

でもここでジェンダー論や、文学や、深層心理でこの映画を考えたくない。

やはり映画の構造に秘密がある。

声は幾つもの季節の移り変わりを語る。春が来て、夏が来て、秋になり、冬が訪れ、再び春が来る。四季の移り変わりを語っていく。それぞれの季節にシンクロするように桜の花が、田植えの様子が、街道沿いの紳士服量販店前で行われている夏祭が、夕立が、冬枯の河川敷の緑地帯が映し出される。そして季節の移り変わりは、さらに循環して物語の時間の経過を表している。物語は5年の歳月を語っていく。映像は5年分の季節の循環を映し出す。自転車に乗り移動する視線の映像が、物語の時間に同期する。空間の移動が、物語の流れとなる。
この映画は朗読と茨城各地の四季折々の風景の映像で、『土』と云う小説を映画化したものではない。
小説に描かれた土地の百年後を巡るロードムービーだ。貧困に喘ぐ家族が踏みしめていた土は、現在、瀝青(アスファルト)に覆われているかもしれない。巨大ショッピングモールが建っているのかもしれない。駅に向かう通勤通学路かもしれない。その場所は呪われているのか、それとも祝福されているのか。確かに映画の中では、竜巻被害で倒壊した家屋、放射性物質により汚染された立ち入り禁止区域が映し出されていた。岡倉天心の六角堂も、高萩の海岸もあの日の津波で大きな被害があった場所だ。ただ佐々木友輔の視点はそれらの事実を災厄としてのみ捉えているようには思えないのだ。反対に映画的愉悦すら感じる。語られてる家族の身体も、ペダルを漕ぐ佐々木祐輔の身体と同期し、風を切る疾走感と熱を帯びた心地よい疲労感に変容すると言ったら言い過ぎか。100年前の自然主義の小説がロードムービーに変化し、そこに映し出される風景が身体化されていく。「郊外」と一言で片付けられない固有性と磁場をもった場所に変わって行く。そう場所だ。佐々木祐輔は風景という言葉を回避しているようだ。映画のチラシに書いてあるコピーは以下のもの。

「風景」という概念を乗り越え、隠された基層の秩序を捉える〈場所映画〉

風景という語には、遠近法的パースペクティブを前提とした不動で安全な場所にいる視点を想起させるかもしれない。そして場所という語には、鑑賞者ではない、より能動的な視点をこめているのだろう。その視点は、旅や放浪といったロマンティックな言葉とは無縁だ。即物的な移動する視点だ。そして冷静さとユーモアも兼ね備えている。
時たま移動ではなく食事のシーンがある。自転車をおりて立ち寄ったラーメン屋であったり、年末年始実家に帰省して食べる餅であったり。そのなんと自然で平凡で日常的な光景であること。そこに佐々木友輔の現実に対する態度があるような気がする。同じく時折挟み込まれるスマートフォンの液晶画面やPCやテレビの画面などを使ったイタズラも愉快だ。

そしてこの作品に仕掛けられた映画的愉悦はエンドロールに集約される。この映画はドキュメンタリーではないので、5年間の歳月の物語を5年かけて撮影しているわけではない。同時期に撮影した異なる場所の映像を五つに振り分け5年の歳月を表現している。それを観る人は5年分の場所の移動として観てしまう。つまり場所が、道、が演技をしているのだ。エンドロールには一年目、夏、どこどこの通り。と駅前ストリートや、国道の名が撮影日と共に表示される。時折食事のシーン等で登場した人物名が現れるので、なおさら「道」の俳優性が高まるのだった。そしてそれらの名優達の名前を確認しながらあっという間に3時間の作品は終わったのだ。

長々と書いたがはたしてこの作品に追いつけたか。いや追いつけまい。しかし機会があれば又みたい映画だ。


























2013年5月2日木曜日

町歩きの心得。薄い街とカラミ煉瓦。

「僕が考察するに、この世界は無数の薄板の重なりによって構成されている。それらはきわめて薄く、だから、薄板面にたいして直角に進む者には見えないけれど、横を向いたら見える。しかしその角度は非常に微妙な点に限定されているから、よこの方をみたというだけでは、薄板の実在をたしかめることはできない。そして現実はわれわれが知っているとおり、何の奇もないものであるが、薄板界はいわば夢の世界であって、いったんその中へ入りこむならどんなことでも行われ得る。ぼくの月世界旅行はこの薄板界という別箇の存在を通路とするから、恐ろしい闇を片側にともなって輝いているコペルニクス山も、タイコ山も、虹の入江も、雲の海もすぐお隣である。──いったいここにきみとぼくという二人が、この限定された時間と空間の中にいることが事実であるなら、それと同様、同じきみとぼくが、また別な時間と空間の中に存在することも可能ではないか──若しそれが夢であるなら、いまここに、このわれわれが歩いているというのもひとしく夢でなければならない・・・・・・」
稲垣足穂「タルホと虚空」より引用。

現実世界の時計の針が刻む秒と秒とのあいだに、ある不思議な黒板が挟まっている。そののもはたいそう薄い。肉眼ではみとめることができない。けれどもそれらの拡がりは広大無辺である。
中略
肉眼で見えぬものを何によってみとめるか?一口に云うなら、それは、まっすぐに進む者には見えない、けれども、よこを向いた者には見られると云う条件下にある。
中略
──吾々が道を歩いている時、飾窓や音楽や、人や、自然物に奇をひかれてひょいと首をまげさせられる。これは、実は、春の野辺に立つ糸遊のごとくに、デリケートな薄板が、それらの物象を借りての誘惑なのである。若しもこんな時、吾々の視線が適当な角度に合致したならば、吾々はその音楽なり容貌なり花なりを媒介として、はても知られぬ美の王国へはいることをゆるされるはずであるが、おおむねの場合、かおをまげる運動がかすめた切点によってのみ黒板を瞥見する。だから、その奥に無数に重なり合って存在している薄板界など全く気づかないですぎてしまう。そうかと云って、先にも述べたように、この個別な存在を全然知らないわけでもない。よく脇見をする人がある。これなどは、黒板がちらッとかれの網膜上をかすめただけでもすでに異常な感覚が与えられるので、この瞬間の何云うともない夢心地を無意識裡に求めているのだ、と説明される。
稲垣足穂「童話の天文学者」より引用。

20数年ぶりに稲垣足穂を読み返している。高校生の頃、一千一秒物語に出会ってから20代の半ばまで足穂が愛読書だった。ところがある時からぱったりと読まなくなった。青春文学ではないが、ある年齢じゃないと受け付けない作家じゃなかろうか。ではなぜ今タルホを読んでいるのか?先に引用した薄板界の存在が、その理由とでも云える事態に遭遇したからである。

題して、「果たして緩(カラミ)煉瓦はそこに有ったか。」

事の始まりは一冊の本、「日本の地霊ゲニウス・ロキ」鈴木博之著・講談社現代新書読んだことから。鈴木氏は北区は王子神社の境内の敷石に見たこともない一風変わった煉瓦が使われているのを見つける。後日その煉瓦は銅山で銅を精錬する際に発生するスラグ(滓)を再利用した煉瓦だと云うことが判明。足尾銅山の煉瓦ではないかと鈴木氏は推測する。

遅れてきた近代遺産探検家(自称)として、Ashio Projectのメンバーとして、足尾銅山と云うキーワードに、私は反応しないではいられない。しかもブツは近所の王子ときた。早速、田端駅から京浜東北線に乗り、王子神社に行ってみた。
(Ashio Projectに関してはhttp://fujioh3776.blogspot.jp/2013/04/ashio-project.html

境内の敷石をくまなく見て回るのだが、それらしきブツにはなかなか出くわさない。もしかしたらコレなのかな、というものはあった。それがこの写真。


実はこの写真後日撮影したもの。はじめて王子神社に探しに行った時は天気は曇り。それは周囲の敷石とはことなる質感であったが、やや赤みのある黒い石のように見えた。私には煉瓦とはわからず、写真を撮らなかった。それというのも足尾で見た煉瓦の印象と異なっていたからである。これが足尾のスラグを再利用した煉瓦。王子のものより目が荒く、黒みが強く、なんと言っても大きさが小さい。
足尾銅山 愛宕下社宅跡地にのこる防火壁
その日は、午後から夜間にかけて現場の仕事が入っていたので、自分が誤った場所を探しているのかと思いながらも、調査を中断しその場をあとにした。再び京浜東北線に乗り田端駅で下車。北口改札を出て旧田端大橋を渡り東田端の商店街を抜けて自宅に向かった。その道は田端駅を利用する際に必ず通る道であり、私は数え切れないくらいの回数、そこを歩いている。もちろんその日の朝も歩いている。なのにだ。わたしはある建物と建物との間の、1メートルくらいの空隙を前に訳も分からずハッとして、急に立ち止まった。自分で立ち止まっておきながら、自分の行為の結果に驚いた。そこに先程、王子神社でみた例のブツがいくつも転がっているではないか。これがその写真。


半分に割れているものもある。流体的な質感がある。

スラグ煉瓦に違いないとその時確信した。王子に戻って写真を撮ろうとも思ったが、時間の余裕がなかったのであきらめ後日行くことに。それが最初に掲載した写真。それにしても不思議だ。朝駅に向かうときには全く気づかず、王子でも確信が持てないまま戻ってきたのに、よく視界の片隅のその存在に気がついたものだ。しかも王子神社のものは地面に埋まっているのだから、全体像が掴めてないのにもかかわらず。

探している時は、見つからない。見つかるときは微かな気配でもぱっとわかる。失せもの、捜しものの法則だが、人間の無意識領域における視覚情報の走査能力は凄いものがある。まさしく足穂の「薄板界」だ。脇見をしながら歩く技術を、フィールドワーカーは習得しなければならない。

一週間後に休みが取れたので、再び王子神社へ。その後、鈴木氏の著作より新橋住友ビルにエントランス廻りに煉瓦が使われているとの情報から新橋に移動。住友ビルへ。




別子銅山・四阪島精錬所で作られた煉瓦。緩(カラミ)煉瓦という名称を持つことが分かった。スケールであたると田端、王子神社の緩煉瓦と同じ大きさであった。縦45㎝×横22㎝×厚み15cm。田端、王子とも四阪島で生産されたものか?ここでまた謎が生まれた。


いったんこれだけの緩煉瓦を認識すると緩煉瓦レーダーの様なものが私の身体に装着されたようで、更に一週間後、Ashio Projectとは別の作品制作の為北区の隅田川沿いをリサーチしていたところまたもや偶然に発見してしまった。まずはこんな形で。

真ん中の物体が緩煉瓦。


同じ敷地内には、他にも緩煉瓦がいくつも無造作に転がっていた。

この日は川をテーマにしたダンス作品の為、隅田川をリサーチしていたのだが緩煉瓦レーダーは無意識の領域でしっかり稼働していたようだ。やはり脇見をしたときに発見。

更にネット上で下記の情報にヒットする。
日産化学工業の王子工場(日本最初の化学肥料を製造する会社。王子工場は現在の豊島5丁目団地がある場所あった。)で、日露戦争勃発による銅の軍需が増大した1904、1905年頃に、硫酸製造の過程のなかで生まれた物質から銅を精錬し、その際生じたスラグをリサイクルして緩煉瓦を製造したとある。足立区では、土留め、塀、商店のシートの風よけの重し、車よけ等に使われたとも。

だんだん分かってきた様な気がする。王子神社、北区隅田川沿い、田端の緩煉瓦は日産科学工業産なのではなかろうか。四阪島のものと大きさが同じなのは固める容器の規格が同じだったのだろう。
そして日露戦争が近代史においては重要なキーワードであることを改めて実感。

足穂の薄板界、薄い街はファンタシューム化合物が結晶化した幻想と詩的情趣に溢れた世界なのだろう。その世界に今の私の心は、もうときめくことはないが、脇見歩行の必要は今もなお、大いに賛同する。脇見歩行という身体行為によって遭遇する小さな事物が、やがて連関をなし、現在の日常世界に通じる歴史がだんだんと見えてくることが面白い。

──そこはいったいどこなんです。
──どこでも!
──どこでもですって?
──そうです。この街は地球上に到る所にあります。ただ目下のところたいへん薄いだけです。だんだん濃くなってきましょう。
稲垣足穂「薄い街」より引用