2013年1月17日木曜日

風景/身体/視線 「季刊タカシvol.17 初春」崟利子映像作品を観てきた

 東京に雪が降った翌日の夜、隅田川は永代橋の袂(右岸)にあるギャラリーマキで、映像作家・崟利子の新作と過去の代表作の2作品を観てきた。
最新作は、黒沢美香&ダンサーズが去年11月に行った青森県八戸ツアーに同行した5日間をもとにした作品。ツアー詳細 http://nangoartproject.jp/dance-jazz.html
私にとって八戸は、親元を離れ下宿暮らしをしながら高校に通った土地、色々な思い出のある第二の故郷の様な場所。そこで我が敬愛するダンサー黒沢美香が踊ったと聞けば観にい行かないはずがない。そして、もしかすると、あの時見上げたキーンと澄み切った晩秋の秋の空が、漆黒の闇の中から次々に地上にふりしきる雪の景色が見られるかもと、淡いノスタルジアのような気持ちを、心のどこかにいだいて上映会に臨んだ。
ギャラリーHP http://www.gallery-maki.com/
 しかしそんな中年男の小っちゃな郷愁などあっけなく吹き飛ばす、冷静で深みのある作品に出会えた。未見の作家の作品に出会っていつも思うのだが、なんでいままでこの作家の活動を知らなかったのかと悔やむ、と同時に、世界にはまだまだ自分の知らない興味深い面白いコトはある、素晴らしい活動をしている人はいるということにワクワクする。
 上演は崟利子の代表作「伊丹シリーズ」から始まった。何の変哲もない住宅街の十字路を中心に固定されたビスタの映像。細い通りを、人が、自転車が向こうからやってきて、画面の外に消えていく。固定されたフレームの中で、歩く人は出現と消滅を繰り返していく。当たり前と言えば当たり前の光景の中、一人の作業員が中央の電信柱をよじ登っていく。自動車がその電柱の脇を右折して画面の中央に出現する。そして自動車は画面の外へ消えていく。作業員は電柱に登ったまま。夏の昼下がり。
 映像はフェードアウト・インを繰り返しながら固定されたフレームで様々な街の風景を、異なった時間帯で映し出していく。映像の中に、人々は出現し、そして消えていく。
夕方の空であろうか、あかね色の空の遠くに飛行機が飛んでいた。やがてテキストを朗読する声が映像に被さってくる。その声を聴くことは私には初めは苦痛に感じられた。スタティックだが、十分に豊かな映像を観るという行為と、散文詩のような詩的言語を聴いて理解する行為がうまく調整できなかった。声は、やがて視界から消え去っていく者達との交感不可能性について言及して終わる。なんだか、喪の体験が基底にあるようだと感じられた。映像は夏の盛り、寺社での主教儀礼の様子を映し出す。今度はカメラはゆっくりと旋回しながら周囲を映し出す。寺の敷地では、夏祭り。
 視線の変化はなんなのか。街角の風景のスケッチから、そこに現れた人々に少しばかり意識が接近したように感じた。朗読されたテキストが、テロップで画面に現れる。消え去った人にどのようにして、呼びかけをすればよいのかわからない。そんな内容だった。テキストの言葉が心にしみこむ。盆踊りの光景。夜の小川。
 映像は、やがて秋になった街の通りの様子を固定したフレームで淡々と映し出して終わっていく。映像を観ていて、これは一体誰の視線なのか考えた。街を俯瞰する上方からの視線ではない。そこに出現と消滅を繰り返す人々と同じ位相にある視線。位相は等しいが歩く人たちに、圧倒的に距離感を感じる。夏祭り会場で旋回した視線も、周囲を映し出してはいるが視線の主体性は希薄だ。ひょっとすると画面=世界から消え去った死者達から眺めなのかもしれないとも感じた。
 つぎに八戸ツアーの作品。黒沢美香&ダンサーズの作品は、JAZZという音楽の方法論をもとにした「jazzzzzzzzz-dance」。JAZZの様に、一見自由度が高そうに見えるダンスだか、ミニマルな振付がされており、ベーシックになる振付にダンサーが内在しないと成立しない作品。ダンスでjazzを泳ぐと、黒沢が書いているように空間のあちらこちらでダンスが生まれ、デュオになり、トリオに成り、ユニゾンに成り、そして散開し、また集合を繰り返す。いままでにも何回も上演され、上演の度に、Zの文字が追加されていく。(私は初回と、その7個目のZを観ているのかな。)勿論、とってもグルーブ感のある作品。
 さてそんな沸き立つ感じのある作品に、崟利子は自らの方法論を崩さずアプローチしていく。稽古の様子、本番の上演、移動風景、休息時間などを、伊丹の街の風景を撮ったように固定した視線で淡々と映し出していくのだ。単なるダンス作品のドキュメントではない。画面の右から左に、二人一組になったダンサーが同一のモチーフを繰り返しながら現れては、消えていく。それに被さる黒沢が振付をする声。ダンス作品の全貌を伝えるのではなく、ダンスを成立させる個々のダンサーの身体の、その運動する四肢の、一瞬一瞬の表情を冷静につかみ取っていくのだ。まるで橋の上から川面の様子を凝視するかのような態度。風景としての身体をそこに見いだす。
 わたしはかねがねダンスというものは、それを意図した瞬間に生まれ成立する、もしくはそうありたいと願うものだという思いがある。同じステージワークである演劇は、その開始にあたってある種の欠如を前提とし、観客と共にその欠如を補完していく。ダンスは補完すべき欠如を持ち合わせていない。ダンスは存在の現前性をもって開始する。あたかも、山や海や川のように。風景には変化はあるが開始と終了はない。ダンスという風景の中を人が通過していくのだ。(しかしこの考え方は私の悪い習性なのだ。ダンスを、ダンサーや振付家や観客の外部に追いやって、思考不能にしてしまう。密教?)
 映像の中で、出現しては消えていくダンス。それはまるで伊丹の街の往来を通過して消えていく人々のイメージに連結する。途中、劇場ではなく住宅街の風景の中で、一服をしながら沈思黙考しているひとりのダンサーの姿が映し出される。その路傍にしゃがみ込む姿勢や立ち上がって伸びをする行為がまるでダンスをしているように感じられたのが不思議だった。そして繰り返すまた同じ疑問。果たしてこれは誰の視線なのか。
そして終演後であろうホールの外に降りしきる雪の情景が、前日の東京の雪とシンクロし、八戸の冷く凍てつく冬の空気を思い出して身も心もキュッとなった。