JR秋葉原駅構内各所に設置された監視カメラを人々を見守る天使に見立て、天使に祈祷するシスターを演じた山岡氏。秋葉原駅が十字架の形であること、駅を意味する英語stationには留まると言う意味があり、the stations of the Cross (十字架の道行の留)とうい成句はキリストの受難を表す14の像の前で立ち止まりながら祈祷するという意味であることなどから、私はキリスト教からの引用を使い管理社会をユーモアで皮肉気味に批判している作品だと思っていた。先日Facebook上で紹介をしたら早速作家本人からコメントをいただいた。
萩原様。一昨年の作品ですが、取り上げてくださってありがとうございます。最近のいくつかの犯罪で、まさに、監視カメラの話題が増えていますね。皆さんはどのように捉えておられるでしょうか。
この作品は、プライバシーを侵害される問題の観点から入っているように見えますが、むしろそれよりも、「つながっている」ことを求める心の方をテーマにしています。たとえば、宗教は、その真実追求性よりも、多くの人にとって、コミュニティ性に意味がある。同じシンボルを共有する人たちの集まり。この「孤独な」シスターは、天使(実際は監視カメラ)に監視されていることを確認/感謝しながら、自らの身体を高揚させ、教会内(実際は秋葉原駅)での、廻廊巡りをしているのです。最後は、聖堂の祭壇(駅の真ん中あたりのロッカースペース)にて、キリストのゲッセマネの祈りを夢想し、殉教のイメージひ浸っています。
プライバシーの侵害はそれはそれで問題なのですが、それとともに、「孤立」する人々の方が私の興味の対象です。守らなくてはならないプライバシーがある人たちは、それなりに幸せだ。家族や友達、仲間、コミュティ、民族、宗教、国家。
つながりとは、足かせであり、生きる場所でもあります。
最近の大阪での通り魔殺人も、個人的に自殺するのは辛く、むしろ、刑務所に戻って、死を誰かに執行してもらいたいようですね。
秋葉原と言う場所は、孤立する若者にとって、シンボリックなロケーションだと、私は思います。形が、十字架だと言う事もずっと前から、気になっていたので。勿論、それは全くの偶然ですが。
この作品は、プライバシーを侵害される問題の観点から入っているように見えますが、むしろそれよりも、「つながっている」ことを求める心の方をテーマにしています。たとえば、宗教は、その真実追求性よりも、多くの人にとって、コミュニティ性に意味がある。同じシンボルを共有する人たちの集まり。この「孤独な」シスターは、天使(実際は監視カメラ)に監視されていることを確認/感謝しながら、自らの身体を高揚させ、教会内(実際は秋葉原駅)での、廻廊巡りをしているのです。最後は、聖堂の祭壇(駅の真ん中あたりのロッカースペース)にて、キリストのゲッセマネの祈りを夢想し、殉教のイメージひ浸っています。
プライバシーの侵害はそれはそれで問題なのですが、それとともに、「孤立」する人々の方が私の興味の対象です。守らなくてはならないプライバシーがある人たちは、それなりに幸せだ。家族や友達、仲間、コミュティ、民族、宗教、国家。
つながりとは、足かせであり、生きる場所でもあります。
最近の大阪での通り魔殺人も、個人的に自殺するのは辛く、むしろ、刑務所に戻って、死を誰かに執行してもらいたいようですね。
秋葉原と言う場所は、孤立する若者にとって、シンボリックなロケーションだと、私は思います。形が、十字架だと言う事もずっと前から、気になっていたので。勿論、それは全くの偶然ですが。
コメントを読んで、また一段と作品の多義性に魅了される。プライバシー侵害が問題ではなく、逆に『つながっている』ことを求める心がテーマであり、孤立した人間に焦点があるという点。単なるアイロニーの表現ではなく、反対に絶望からの帰還を促すものに見えてくる。山岡氏の演ずるシスターの真剣さがユーモアと救済の隙間でさまよっている。孤立するもの達がかかえる空虚感は怒りの拳だけでは覆せない。
私もはじめは、プライバシーの問題からこの作品を見ていた。キリスト教モチーフが使用されている点に目が行ってしまったからかもしれない。キリスト教社会の世俗化が進むことによって、教会は国民国家と同質化し社会の中での影響力は消えていく、信仰の形態も無神論と化すことによって、人はおのおの自己を、己の神とし、主体の内部を持つにいたる。この内部の形成がプライバシーの発生だ。私達にはもはや告解は必要ないのである。
はなしが飛びすぎているようだ。ここは日本だ。山岡氏のコスチュームプレイに引っ張られてしまった。
重要なのは、私たちが何かの始まりに立ち会っているということだ。ジル・ドゥルーズ
記号と事件 追伸ー管理社会について 299頁 河出書房新社1996
ドゥルーズは1990年に管理社会について、短いが予兆にみちたテキストを書いている。フーコーが提出した規律社会から、現代のそして未来の管理社会への移行について書いている。規律社会においては監禁が社会を構成しているシステムであった。家庭、学校。軍隊、工場、監獄。しかし19世紀的システムは内部から徐々に崩れていく。規律社会では(学校から兵舎へ、兵舎から工場へと移るごとに)いつもゼロからやり直さなければならなかったのにたいし、管理社会では何一つ終えることができない。295頁
在宅介護・デイケアは監禁型医療システムの変化であり、それと同時に行われる予防医学の提唱は人々の意識を、病との戦いに日々送り込む生政治だ。生涯学習の重要性が唱えられ、教育機関のあらゆる局面に産業が入り込んでくる。私を高く値踏みしてください。情報インフラの発達により、あらゆる場所が職場となり、勤務形態の多様化が働き方の選択肢を増したようでもあるが、同時に不安定な雇用状態を容認する温床でもある。ノマドワークとはよく言ったものだ。冗談かと最初は思ったが。
人間は監禁される人間であることやめ、借金を背負う人間となった。しかし資本主義が、人類の四分の三は極度に貧困にあるという状態を、自らの常数
として保存しておいたというのも、やはり事実なのである。借金をするには貧しすぎ、監禁するには人数が多すぎる貧民。298頁
人間を取り巻く状況が、ますます市場的そして証券的な考え方になっていく。
私を高く値踏みしてください。私は健康です。私は将来の可能性にかけて頂きませんか?
広大無辺な時間の流れに放逐されて、人はみずからあわてて足かせを自分のあしに取り付けている。足かせ=生きる場所。それがないと生きていけないのは承知しているのだが、やりがい、未来、希望など一見ポジティブな言葉によって、自分の生を何かに隷属させてるのではないかと思う時がある。
だから、はなっから経済活動での成功や自己実現をあきらめた感じのするダウナー系男子を見て生き方としては有りかもしれないと思う私は、たぶんマッチョなんだろうね。