今年の春の鎌倉近代葉山での「村山知義」展、汐留ミュージアムでの「今和次郎 採集講義展」の影響から辿り着いた書籍のなかの一冊。
昭和のデザインへの郷愁(築地小劇場のポスターがいい!)をかき立てられつつも、私にとって新たな発見があった。そのうちの一つ。
「山羊のアリス」のエピソードがほほえましくも、今日の日本で再び考える必要のある問題を孕んでいる気がする。昭和25年の初夏に一匹の山羊が、吉田家にやってくる。その山羊の来歴が興味深い。
《山羊の名前は「アリス」。後年「蟻の街マリア」で知られるようになった
バタヤ(廃品回収業者)村からもらったので「蟻の街のアリス」と謙吉が命名した。なぜ山羊を飼うことになったのか?「蟻の街」は、隅田川の事問橋付近、現在の隅田川公園付近にあった。「蟻の街」を応援し、そこに住んでいた知人の劇作家松居桃楼から頼まれ、(廃品回収の)第八車に絵を描いた。》45〜46ページより引用 以下3枚の写真も。そしてその絵を描いた大八車のお礼として蟻の街より山羊が吉田氏に送られたのだった。それにしても大八車に絵を描く吉田氏と奥さんの顔の楽しそうな事よ。吉田謙吉は廃品回収時に着用する廃品回収服なるものもデザインしている。昭和25年は、まだまだ復興の道半ばの東京であったにちがいない。貧富の差、生活環境の質の差は歴然とあったであろう。そんな時代に社会福祉活動に身を投じる人達がいて、その活動を自分のもっている技術で応援する人がいて、そして当の支援を受ける人達も人々の支援に対して、心からお礼をする。そんな人間力がある社会でもあった。今日、パブリックスペースやコミュニティをテーマとするアートはよく見受けられる。それは公共の側から、コミュニティの側から求められているものなのだろうか。フィールドワークと称して、コミュニティに入り込み、ワークショップの名のもと、地域住民を動員して作品を作った結果が、住民に何ら益のないもにならない保証はあるのだろうか。得をするのはアーティストだけにはならないのか。アートに対して返礼ができるコミュニティはそもそも力のあるコミュニティであるだろし、アートの側から一方的な提示をするだけなら、コミュニティはアートと関わる必要はないはずだ。念のために言っておくが、画家は看板を描けと言っているのではない。コミュニティにとってもアーティストにとっても、相互に交換されるものがなければならい。大八車は吉田謙吉にとって、数多くてがけた仕事の中の一つであった。そして同時に蟻の街の人達にとっては、重要な生活のための手段だったのだ。
第八車の下絵 |
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