2014年6月22日日曜日

雑感2014・06・22

準−日記。

今週私は二つの撮影に関わった。一つは私が被写体。もう一つは私が撮影した。

後者は知り合いのアーティストの手伝い。行為による都市空間への介入。しかしパフォーマンスアートとしてではなく、映像作品の為のスケッチのようなもの。例えばこのようなことを撮影した。アーティストは歩道橋を昇る。そして橋の真ん中で立ち止まり、空を見上げ、右手の人差し指で空の一点を指し続ける。ある一定の時間の経過後何も無かったかの様にアーティストは歩き出し、歩道橋を降りて画面から消える。アーティストの画面への出現と消滅は、歩道橋の形態から導き出された画面構成からあらかじめ予定されている。しかし指で空を指すことは予測できない。歩道橋は普通に歩行者が多く歩いていたのだが、その指差し行為に戸惑い空を眺める人が何人もいた。その様子を離れた場所から固定アングルで撮影した。歩道橋という設備から生み出された、歩くという身体の動きに、ふっと介入する指差し行為。大事なのは歩行者を困惑させることが目的ではない。それを更に映像として見ている人の心身に働きかけることが目的なのだ。都市の環境を構造とするならば、歩行する身体はその構造から生まれた機能であり、アーティストの行為は、その機能の流れの中に生まれる異なる位相の機能であり、そのとき構造のデザインは、その映像を見る者にとっては、本来の意味から僅かではあるが隔たりを生じている。


私は再びこの場所に来た。
そしてあの日と同じ様に水の中に身を横たえる。
浮かぶでも無く、沈むでも無く。
遠浅の海は何処までも広がった海水のシーツ。
海中から陽の煌めきを見ようとするが、
目が滲みてよく見えない。
引き潮の時。
沖の方へと引き寄せられつつも、
私のからだはその場にとどまる。
面白いことに、立って歩いているとすぐに逃げてしまう、
小魚達が私のからだの廻りに集まってくるではないか。
どうやらわたしを流木の類いと思っているらしい。
彼らは私のからだの影にかくれて、
鳥や大型魚から身を守ろうとしているのだろう。
はやく、沖へ行きなさい。
もうすぐここは干上がるよ。
潮の流れに引きずられ、私の両手は干潟の砂に潜り込んで行く。
もはや蟹や貝にも親しいわたしのからだ。
潮の満ち引きが、私のからだの形を変えていく。
場所の振付。海のダンス。浅瀬を転がる。
海水は澄んで美しい。
砂もさらさらだ。
気がつけばY君が膝まで水に浸かって立っている。
一眼レフを取り付けた一脚を、海の中に突っ立てて。
ああ、Paulさんと同じ姿勢だ。
あの日の彼と同じ格好で海の中に突っ立っている。
海の中に転がる人を、撮影する人は同じ装備、同じ姿勢になるのは当たり前だ。
でもあの日のPaulさんをY君は見ていない。
あの日彼が撮影した映像は誰も見ていない。見ることができない。
だけどあの日のPaulさんと同じ様に、
Y君は「右手をあげて。」「次は左手。」「足を広げて。」等々と私に指示を出す。
ああこれも、遠浅の干潟の海が、人を導くんだろうなと、私は思ったのでした。


作品を制作する為には、他者に開かれていなければならない。
そして同時に孤独の中で、己の思考を吟味し、身体を精査しないといけない。
ただ一人きりで、黙々と井戸を掘らないといけない。
でもあるとき水脈にあたる。
いやあたらないかもしれない。
どちらにせよ極めて私的な行為が、
己の思惑や企てを超えて、
他者にまみえることになるかもしれない。
時の隔たりも、
生死の境もこえて。

そんな思いを持つ私は、

楽観的なのであろうか?

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