2014年4月2日水曜日

上演告知です。さそうすなお×萩原富士夫 SFオルガン公演「目まいのする散歩」

上演告知です。直前ではありますが。
去年より始動した、さそうすなお×萩原富士夫のダンスユニット、
SFオルガン(そうそう、ユニット名を作ったんです。)の第二回目公演、
Oval Dance series vol.2「目まいのする散歩」を4月6日(日曜日)に東京都立清澄庭園の中にある「涼亭」という場所で行います。(東京都江東区清澄3−3−9)
17時開場、17時30分開演です。チケット2,000円。(要予約 fujioh3776以下@Gメールで連絡ください)よろしくお願いします。



今回の作品は去年年末に上演したユニットのデビュー作「目まいをする準備」の続編というか、ワーク・イン・プログレスというか、発展形というか、はたまた終止形なのかは定かでは在りませんが、前作同様に小説家武田泰淳の晩年の作品「目まいのする散歩」をもとにダンス作品の上演を試みます。以下当日パンフレット掲載予定の文章。

武田泰淳著『目まいのする散歩』はこう結ばれています。
—地球上には安全を保障された散歩など、どこにもない。ただ、安全そうな場所へ、安全らしき場所から、ふらふらと足を運ぶにすぎない。—

何気なく、確信的に、事故的に、足を踏み入れた場所には、踏み入られる前から既に夥しいものが在りつづけている。その幾つかに触れるざわめきと、気づかないで過ぎる無数のものを、両極に吊るしたい。

さそうすなお


上演にあたって、今回の私達のくわだてを、皆さんに説明しようとすると己の言葉の貧困に赤面せざるを得ません。かといって上演そのものにおいて身体がそれを雄弁に語れるかというとそれもどうやら怪しいのです。なぜなら斯く斯く然々の試みをダンスで表現しましたという事が仮に成功したとして、その場合におけるダンスとは畢竟、意味伝達の為の手段であって、私達が創作活動の端緒に置くダンスする意志が求めているダンスとは、全くかけ離れた代物なのです。ああ、この物言いをダンサー特有の、身体の経験を特殊化し言語の外側に逆に囲い込む、密教化あるいは神秘主義の立場と同定されることは暫し待たれよ。しかしこの言い回しの中にこそ、私達のダンスを巡る思考の誤謬と、ダンスを希求する熱病の原因が隠されているのもまた事実である。ダンスによって表そうとする「何か」はダンスする身体と分けようもなく、その「何か」がダンスそのもの別名である場合は、手段と目的の取り違えをこえて経験論の刷新を促す運動に転化するからだ。

O body swayed to music, O brightening glance,
How can we know the dancer from the dance?
おお、音楽に揺れ動く肉体よ、おお、輝く眼差しよ、
どうして踊り手と踊りを分かつことができようか。
Among School Children
William Butler Yeats

ウィリアム・バトラー・イェイツ「小学生たちのなかで」の最終フレーズ。


このイェイツの詩句は素晴らしい。まさしく!と叫びたくなる。しかし一方ではこうも考える。ダンスとダンサーを分け隔てることが出来ないのは誤りなのではないか?分離がなされないならば、ダンスにとっての上演は、作品は、踊る人を、ある特定の名前を持つ人が踊るのを観る事に回収されてしまうのではないか?そうなればダンスは反復され得ない身体の一つの特殊な出来事、(今、まさに、ここで、彼、彼女、彼等が)踊るという状況の中に囲い込まれ、それは無限に広がる事象の中で(ある日、ある場所)での上演という岩礁に乗り上げ座礁し、遺棄され難破しやがて朽ちていく船のようなもの。しかしそのような感傷にふける事なく、上演からダンスそのものをサルベージする試みも、まだ可能性として残されているのではないか?とも言いたい。ただし事象の大洋の中で先程の船を、巡航させる帆が孕む貿易風や偏西風のような風として、ダンスそのものが上演に到来するとは決して考えない。それは信仰告白であり、来るべき未来の経験論に繋がるものではないからだ。愚かしくも逃れようもない身体の営為の中にこそ問いは立てるべきである。興奮していささかヒロイックな語調になってきたが、武田泰淳の「目まいのする散歩」に私達が魅了されたのもこの点において他ならない。病により自らペンをとって執筆する事もままならない泰淳は、この作品を妻、百合子の手による口述筆記によって上梓する。散歩になぞらえた言表活動は、富士山の別荘廻りでのよろめいた歩行に始まり、明治神宮での百合子に付き添われたリハビリ歩行、三島由紀夫の切腹、時間を遡り関東大震災時の回想や、大戦下の中国の風景、しまいには船に乗りソ連に渡り、飛行機に搭乗し中央アジアへと旅行する事も散歩の範疇となるのだから自由闊達である。しかも百合子の視点による記述が数多くある。泰淳自身、百合子の日記を参照している事を隠そうともしない。何とも言えない不思議な魅力に満ちたテキストだ。そしてなにがなんでも散歩なのである。第一章の『散歩というものが、自分にとって、容易ならざる意味をもっているな、と悟った。』から、結びのフレーズ『地球上には、安全を保証された散歩など、どこにもない。ただ、安全そうな場所へ、安全らしき場所からふらふらと足を運ぶにすぎない。』まで貫いている。意識の朦朧とした晩年の泰淳にとって、「散歩」は「書く」事の別な呼び方である。しかも散歩の同伴者である百合子の見たもの、書いたものまで取り込んでしまう貪欲でいながら、他者に対して開かれた身体的行為なのだ。いや、それでは言葉足らずだ。「目まいのする散歩」において泰淳は書いていない。書いているのは武田百合子だ。百合子の意見も聞かなければならない。幸いにしてSFオルガンのさそうすなおさんは、『富士日記』を毎晩就寝前に愛読する武田百合子のファンであるのだ。百合子の意見は終演後にさそうさんに質問されたし。そして皆さんに念を押しておくが、今回の上演における私達のくわだては文芸批評ではなく、「目まいのする散歩」を読んだ体験を通して、ダンスに至る道をさぐる試みだと最後に付け加えたい。書かれたテキストの内容を再現するのではなく、散歩=書く=ダンスという等式が成り立つならば、あなたが支えるわたしの身体の重さは、すでにあなたの手によって口述筆記された私のすがたであり、あなたが見ている部屋の空間は、わたしが今まさにそこへ右足を踏み出そうとしている場所であり、あなたが耳にする声はもはや誰の声でもなく、etc etc・・・・・・

萩原富士夫


 


写真 矢尾伸哉撮影 涼亭にて3月23日




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