2014年5月8日木曜日

雑感2014・05・08

人の身体は、無からは生まれては来ないわけで、命の長い連鎖の結果それぞれの身体を獲得している。その現在の身体だって不変なものではなく、時々刻々と生成変化し続けている。確かにこの私が生きる身体は、一つなのだが、その由来や、細胞レベルの変化まで考えてみると、身体の生物的な側面において、身体の内側と外側とを分ける境界線を明確になぞることは難しいとおもう。そして身体の社会的側面においてはなおさら境界線が定めがたい。政治、ジェンダー、文化、経済、労働、権力、恋愛、家族、言語、様々な関係性と、力の流れの中で身体が形づけられている。外から来る力もあれば、内側から湧く力もあり、己の存在に確固たる確信を持つこともあれば、絶望でうちひしがれて消えそうな身体も、一人の身体におこりうることなのだ。ランニングをしているとき、登山をしているとき、食事をしているときに、労働をしている最中に、まさに今、己はダンスしているのでないかと思う時がある。それは僥倖である。なぜなら盤石な日常の身体の動きの中から、はぐれ、こぼれ落ち、未知の可能性の大陸に辿り着いてしまったのだから。たぶんそうにちがいない。そうであるはずだ。そうであってほしい。希望がそこにある。たぶんダンスというものは、圧倒的な力に対して、身体のあり方で身をかわし、力の闘争の場に一種の空隙をつくる行為かもしれない。ささやかであるが、なにものにも従属しない、自在な行為。端から見ると、無目的で、無意味かもしれない行為。ことをおおげさに語っているだろうか?否!ダンスとは本来ゆゆしきモノなのだ。Yes! Yes! Yes! 話を冒頭にもどす。私は、身体の境界線についてはなさなかったか。望むと望まざると、身体の境界はおぼろげなので、ダンスの僥倖を一人の身体の宝とするのではなく、分有する可能性を追求すべきなのではないか。身体を存在の類型の鋳型に押し込めようとする諸力に対して、ダンスの経験を他者に伝達し、他者と分有することが来たるべき身体の民主主義なのではないだろうか。《今・まさに此処で》ダンスを肯定することは尊い。しかし「一」は死を免れ得ない。「一」から「多」へ。ダンスするものが纏う衣服に注目されたし。それは企てであり、振付である。それはある種、言葉のようなもので編まれているので、諸言語に翻訳可能であり、諸国民が分有可能であるはずだ。「振付とは翻訳可能性のことだ。」


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